草競馬


「恭弥も賭けてみるか?」
 手合わせをしてやるから観光にもつきあえと弁を弄して、幼い弟子を愛車の助手席に見事押し込むことに成功した。田舎道のドライブ。過保護な部下達もいない。二人きり。つまりはデートという範疇に属すると見做してもよろしいのではなかろうか。道程の途中に近くに競馬場があることに気づき、ちょっと寄ってみようという話になる。もしかしてこれが観光ってことになってるのだろうか、恭弥の中では。いちおうこう、遊園地とかいいかなとか目星をつけていたのだけれども。
 まあ仕方がない。時間的にも教え子の心情的にも、ここでちょっとふらふら見物でもして腹ごしらえをしたら、あとは戦うばかりというテンションになることはもう間違いがない。とんでもない人ごみ。雲雀恭弥がキレないのが不思議なくらいで、いやもう中に入るなりキレかかっていたのは横にいてもよくわかったのだけれども、パドックをぐるぐる回る馬が視界に入った途端、教え子の機嫌は奇跡的なまでに回復した。
「わかりやすいなー」
「そう?」
 難しい顔をして恭弥はオレが右手に持っていた競馬新聞を覗き込んだ。顔が近い。オレは柄にもなくどきどきした。いや正直にいえばこの教え子にはしょっちゅうどきどきさせられているけどもいろんな意味で。ただこう、この子どもにあわせて中学生みたいな甘酸っぱいお付き合いをさせていただいているわけだけれど、こちらは大人で、しかもこんな無防備に恭弥が自分から近づいてくるなどついぞない機会であるキスしたい。
「さっぱりわからないんだけど」
「………そうだな」
 つやつやの黒い瞳に浮かんでいるのが単なる熱心な好奇心なのを確認してオレは何とか頷いて見せた。危なかった。赤ペンを胸ポケットに差した日焼けしたおっちゃんの群れの真ん中で男子中学生の唇を奪ったら、オレは生きて日本を出ることが叶わなかったかもしれない。被害者の報復によって。
 自制心を総動員して、新聞を額を突き合わせて覗き込む。細かい文字が並んでいるそれは、経済誌などよりも余程オレにとって難解だった。何がって専門用語が。それなりに日本語には通じている自信はあるのだけれども、流石に競馬関連の用語などつまりはイタリア語で何に当たるのかさっぱり分からないし、更にその上狭い紙面ということもあってなんかこう、短縮した記載が多いっぽいのだ。理解できる気がしない。
「あなたマフィアだろ。ギャンブルもしたことないの?」
 つまらなそうに聞く子どもは、いかにも賭けが好きそうな負けず嫌いだ。会って間がない頃、部下達とたわいもない話で………そう、確か山中のレストランで全員が入れなくてどうやって二手に分けるか話してたときだ。傍で珍しく大人しくしていた恭弥が、きらっきらした瞳で「やっぱりロシアンルーレットとかで決めるの」と聞いてきたときのことは忘れられない。あれは僕も参加するよという時の目だった。
「あるけどさー、さすがにイタリアとは勝手が違うっていうか。とりあえず一番を当てろ一番を」
 この単勝、ってのがVincenteのことだろう多分。配当は少ないけど。Accopiataは日本語でなんていうんだろう? 項目が多すぎて予想がつかない。
 もともとそう競馬には詳しいわけではない。こんな名前のファミリーをやっていると、馬主にならないかだとかなんだとかいう話が持ち込まれることは多いし、実際家で飼ってもいて、子どもの頃は乗馬を習わされたりもしたわけだ。だがガキの頃はオレは本当にへなちょこでポニーならともかく馬なんてと本気で思っていたし、ボスになってからはそうそうそんな優雅な余暇の時間なんて取れない。ファミリーをついですぐの頃は財政がかなり逼迫していたから、手っ取り早くギャンブルで稼いだりもしていたのだが、日本ではどうかは知らないが欧米では競馬場は社交の場としても存在している。カジノのVIPルームか何かならまだしも、裏も表も玉石混淆、マフィアのボスから政財界の御歴々まで、勝っても負けても多くを得てもすべてを失っても平静を保っているかのように振舞うという金と面子を賭けた戦場である。いくら日々それ以上に法に抵触する活動をしているにせよ見るからにティーンエイジャーなオレがのこのことあがりこむのは憚られたものだ。そして数年後にはそれなりに利益も上がるようになって、そんな危ない橋を渡る必要もなくなった。今は正々堂々と遊べる立場にいるわけだが、お付き合いでたまに券を買うくらいであまり関心があるわけでもない。
「強いのはどの馬?」
「うーん、予想だとこれとこれと、これらしいって書いてあるみたいだけどなあ。でもこういうレースって大体実力が拮抗してる馬がそろって出るわけだからな。そうそうその通りいくってわけじゃねぇよ。だからこうして馬が元気かなーって見てみてな、あとは勘?」
「ふうん」
 紙面から顔を上げた子どもは馬たちの行軍に目をやるなり、つんと尖っていた唇を緩めた。たいそうわかりやすい。最後に騎手たちが馬に乗ってもう何回りかするのだろう。先頭の黒馬には既に派手なコスチュームを纏った男が跨っていた。
 こういうのもいいなあと思う。ぽかぽかした春の陽気。青々した芝。馬たち。周囲の状況を忘れれば牧歌的な光景といえなくもないし、そうでなくても何でもない金額を賭けて、当たったの当たってないのいいあうのもいい。馬鹿みたいに悔しがって見せた方が余程楽しいし人間的ではないか。恭弥が馬が好きなら、どこか牧場で乗ってみるのもいい。いや、乗るだけなら、うちに招待すればいくらでも馬はいるのだ。我ながらへなちょこなので馬主を引き受けて儲かったり儲からなかったりしたあと、御役御免になった彼らに御成仏戴きたいなど指示できるはずもなく、土地だけはあるし草も生えてるので部下に適当に放牧させたり世話させたりしている。シマの人間にはキャバッローネのボスは馬好きだからと考えられているらしいのだが、特にそんなわけではなく、幼い頃よく遊んでいたポニーのスクーデリアが死んでからは一回も………いやこれはまずい。明らかにかわいい恋人を自宅にご招待する前に集中特訓が必要である。
「あなたは馬が好きなんだろ?」
「へ? いや嫌いじゃねーけど………あ、恭弥あれだろ、オレが跳ね馬だからってな」
「違うよ。十年後のあなた、馬に乗ってた」
「え、そうなのか?」
 十年後の世界で戦った記憶。ある日唐突に、瞬間的にもたらされたそれはどこか曖昧だ。その時代のオレが強烈に感じた記憶、そうでなくても多分思い入れの強かったもの。それだけがはっきりしていてあとはどこかぼんやりとしている。例えばもちろん匣兵器よる戦い。そして高揚、恐れ、怒り、痛み。守りたいと思ったもの。そんな記憶は明確なものとして自分に与えられている。あとは天災にも似た家庭教師を見るなり湧き上がってきた喜びとか、恭弥がとても微笑ましく見えること。
 そして恋人への思い。恥ずかしながら十年後のオレはそりゃあもうへこみまくっていた。勿論それでも冷静に恭弥を鍛え敵と戦う才覚くらいはあったわけだが、夜中に一人になったりすると泣きそうな顔をして十年後の恭弥のうつった写真を取り出しては眺めたりしていた。その悲しみは重々理解できるものだけれども、無事勝利を得た今となってはそして今現在に存在するオレとしては、他のもっと戦いや匣に関する情報を豊富に欲しいと思うところだ。オレは相変わらず馬に見惚れている恭弥を見ながら小さく息を吐いた。
 あの写真。その状況でよくピントを合わせられたなという写真だ。恭弥は肌蹴たシャツを纏っているきりで、こちらに向けて淫靡な笑みを浮かべていた。正直にいおう。好みだ。魅力的だ。むしゃぶりつきたくなるくらい。だがこの馬を見てにこにこしているような子どもがあんな大人に育つというのなら、それはもうほぼ間違いなくオレの責任だろう。それは正しいことといえるのだろうか? 中学生をマフィアの世界に引き込んだりした人間が、今明らかに躊躇いを感じていた。恭弥はいくらだってまっとうにまっすぐに育てることができるはずの子なのだ。
「ねえ」
 かわいい唇が動いているのをぼんやり眺めていると、一際大きな声が上がった。はっと我に返る。危ない。何ということだ。
「ん? どうした?」
「聞いてなかったの? あなたの馬もいい子だったって話だよ。あなたよく移動にも使ってたけど大人しくて」
「なんだよ恭弥。オレの記憶がはっきりしてるわけじゃないからって大人をからかうなよなー。戦ったのが並盛だってことくらいちゃんとわかってんだぞ。あんなとこスクーデリアで移動するわけねーだろ」
「………もういい」
 いたずらがばれたのが悔しかったのか、恭弥はそっぽを向いた。仕方のない子だ。頭を撫でてやる。
「どれにするか決めたかー?」
「ん。あれ」
 指をさしたのは三番目の馬だ。新聞に目をやれば何か呼び出せそうな名前がついている。
「おーあれかー」
「あなたみたいだから」
「へ? ああ、でもあの馬は葦毛みたいだぞ。見た目は白いけどな。オレの匣は白馬だったろ?」
 カタカナ表記の名前の横に書いてある。歳を取るうちに毛が白くなる葦毛とオレの匣、十年後のオレがかわいがってたポニーの名を与えたらしいスクーデリアの白毛は根本的に違う。白毛はアルビノというわけではなく、また生まれること自体が稀で希少価値も非常に高いのだ。生息範囲が違うというだけで交配させれば一代限りはすぐ生まれるライガーなぞとは話が………って張り合ってどうする。
「ちがうよ。あなたみたいだから。強いはずだ」
「………どこらへんが?」
「さっきから首ばかり振ってる」
「そ、そうか?」
「頭くっつけたり離したり。何がしたいの。さっさとすれば」
「え! うわ! ええええ」
 先ほどから何度となく勝利を収めてきた葛藤を思い出す。いやまさかそんなばれてるとか。
「? しないの」
「おっまえなあ。ここをどこだと思ってんだ。周りは知らないおっちゃんだらけなんだぞ。恭弥は恥ずかしがりやないい子だろ」
 ちゅ、と小さな音がして、気づいたときにはかわいい唇はもう離れていた。だが確かに温かい舌が自分の唇を撫でていった感触があって、信じられない思いで幼い弟子を見返す。ゆっくりと弧を描いた唇も、誘うような目元もとんでもなく記憶にある写真のそれに似ていた。
「いい子じゃないよ」
「きょ」
 なんで。オレと恭弥は未だ可愛らしくも甘酸っぱいお付き合いをしているのだし、十年後のオレは甚大なる節制の末ほとんどいたずらもせずに教え子を過去に返したのだ。ちゃんとそこの記憶はしっかりしている。
「だいたいどうして気づかないかな。そりゃあなたの部下ってすごく自然に場に溶け込んでるけど。住んでるみたいだよね」
「おいおいそりゃひでーな恭弥」
 聞きなれた声がして、見回すと正面に立っていたいかにも競馬場の主です、といった雰囲気の大柄な男がちょうどオレたちの日よけになるように競馬新聞を高く掲げていた。左右にも後ろにも、見慣れた顔が立っている。いつもの黒スーツではなく、くたびれたジャンパーを纏っていて、さっぱりまったく違和感がなかった。
「お、おまえら………」
「これからの僕らの予定覚えてる?」
「え………手合わせ?」
「それが分かってるのについてこないはずないだろ? さっさとやるよ」
 それでなんでついてくることになるんだろう。手合わせではあるがデートでもあったのではなかったか。
「やるんでもヤルんでもいーがな。とりあえず移動してくれ。衝立になるにも限度がある」
 のんびりとした口調で指摘したのは我が右腕だ。オレは目を丸くした。表立って反対することはないものの、過保護な部下はオレと教え子が必要以上に親しくなることに戸惑っているようだったのだ。ボンゴレの人間の目があるところで親しげな様子を見せるなと諌められたのは一度や二度ではない。
「馬券買ってからね」
「おい、ロマなんで………」
 あわてて問いただそうとすると、部下は何もかもわかっているようにうなずいた。
「ボス、オレも十年後の記憶を得たんだ。知ってるよな?」
「ああ。でも大体一緒にいたし、その、大して違う記憶があるわけじゃねーんじゃなかったのか? なにがあったんだ」
「いや確かにほとんどあんたについてたよ。それで開き直った。あんたの好きにすればいいさ」
「………」
「跳ね馬。はやく買いにに行こうよ」
 きゅ、と手を掴まれてぎょっとする。いやだって。
「恭弥?」
「あなたどの馬にするつもりなの」
「へ? あああれにしようかな、と思うんだけど」
 先頭を歩く黒馬を指差すと恭弥は首をかしげる。
「ふうん。どこが気に入ったの?」
「それはきょ………いやなんとなく?」
 決めた理由はちょっと口にするのは恥ずかしい。誤魔化そうとしていると、ゆっくりと恭弥の顔が近づいてきた。
「ねえあなたも知っていると思うけど、十年後もあなたは僕のものなんだよ」
 もう一度施されたキスは、多分完全に人の目を避けることは出来なかったと思う。でも風紀を重んじる人は平然としたもので、柔らかな笑みを浮かべた。そしてそれは、十年後、オレが写真で見たものと酷く似ていたのだった。
 ああ、オレが与える自信で彼が変わっていくというのならそれはもうどうしようもない! 子どものキスしか知らないで大人になってしまった恋人をオレは思い切り抱きしめた。








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