ヒバリンとココナッツジュースの話


 もうだめだ、そう思ったツナは地に伏せ、最悪の瞬間を待った。仲間達も皆、あの自己主張の激しい吸血鬼に一瞬で倒されてしまったのだ。無事ですむはずがない。と、その瞬間雷鳴のような音がして、あの大きな扉が、ばらばらと崩れ落ちるのが見えた。
 薄暗い闇、だがそれでも外から入り込んだ光に、一瞬脳裏をよぎった、味方かという思考はすぐに消えた。ほんの少し前まで扉があった場所に立っているのは、金の光を身に纏った、鬼人のような男だった。
「恭弥。おまえ何してるんだ?」
「な、にしに来たの、あなたこそ。僕はヒバリンだよ」
 答えてる時点で駄目だろう、と突っ込むには命が惜しい。伏せたまま伺っていると、男は数歩前に出た。逆光がなくなり、目が慣れてみると、角だと思ったのは馬の耳だったようだ。色の濃い金髪の上で、ぴん、と突っ立っている。話に聞くケンタウロス族の者だろう。だが、身に湛えている怒りは相当なもので、鬼ではないとわかっても恐怖は去らなかった。
「こんな子どもを沢山引き込んで、どういうつもりだ? いったよな、オレ以外のを飲んじゃいけねぇって」
「……」
「いったよな」
 ふらふらと逸らされる視線は、これは一応悪いと思っているらしい。そして自分たちはやはり、吸血鬼の餌食になる寸前だったようだ。頑張れ馬の人、とツナは思った。
「でも……あなたの苦いんだもの」
 ………………ん?
「すごく苦い。なんか、飲み込みにくいし」
「な!! おまえ、それは、あれだほら……仕方ないだろ……」
「仕方なくないよ。この前はじめてココナッツジュース飲んだけど、とてもおいしかった」
「………え?」
「ココナッツジュース。缶入りの。甘いんだよ」
「いや知ってるけど。なんでそこでココナッツジュースが出てくるんだ?」
「あなたがいったんだろ。ココナッツジュースは人間の体液と成分が同じだって」
 うわあ。嫌な情報である。家の近所の雑貨店でいつも安く売っているから、何度となく買って飲んだことはあるが、これからは飲めなくなりそうな。
「いやいったけど! いったろ? これも。あれは植物のココナッツジュースだから。恭弥は人間のココナッツジュースでしか栄養が取れないんだよ。だろ?」
「うん。でも、あなた人間じゃないじゃないか」
「え、いやそれは言葉のあやっていうか」
「あなた馬だろ」
「いやせめて馬人間とか……。そこの猫にでも起こして聞いてみろ。あれだぞ。耳と尻尾くらいでそう馬成分多くないぞ」
「そうでもないだろ」
「そうでもないんだよな……」
 はあ、と馬は大きく溜め息をついた。そうでもないのか。
「大体あなたの根性が足りないんじゃないの。甘くしてみなよ、飲んであげるから」
「いやなるかよ」
「死ぬ気でやれば不可能なんてないよ」
「いやいやいやおまえな」
「あなた僕のは甘いっていうじゃない」
 びく、とあまりといえばあまりな発言に固まったのは自分だけではなく、他にも地に伏した幾人か。どうやら彼らも敵が増えた事実を鑑みて、しばらく様子を窺おうと考えていたらしい。だが一応気を失った振りを続けようと努力している自分達と比べて、明らかに挙動不審な反応をした者がいる。
「おま! いやそれはだから言葉の」
「あやなの」
「じゃねえ! いやでもだからそのほらあれだ、あーこんなこといわせんな。だから、恭弥だからだろー……」
「知ってる」
「……恭弥」
「でもここらへんに他に吸血鬼はいないしね。それに僕は他の吸血鬼とは性能が違うから、どうかな」
「……え?」
「試すしかない。ココナッツジュースは人間の体液に近いんだろ。つまり人間のココナッツジュースだったら甘いかもしれないだろ」
 び、とヒバリンの指が自分を指す前に、ぎっ、と男の視線が自分に向けられたのがわかった。一応人間は自分ひとりだ。殺される、と思った。多分自分が今置かれている状況は、捕食者が二名の間で確定しないだけの命の危機だ。
「そんなことねぇよ」
「なにあなた飲んだことあるの?」
「ねぇけど! なんだよ妬いてんのか?」
「………バカじゃないの」
「ま。いいけどな」
「いいの飲んで」
「「いいわけあるか!」」
 思わず突っ込むとおや、といった感じで口を揃えた男がこちらを向いた。先程よりもいくらか機嫌は上昇傾向にあるようだ。一方ヒバリンは今にも吸い殺すどころか咬み殺しそうな目で見ている……なんだろうこれ。デ・ジャヴ?
「人間のだって苦いだろ。な、苦いよな?」
「へ?……はあ、そうですね」
 よくわからないながらに必死に頷くと、恐怖の吸血鬼が、まあなんというかドン引きの視線を向けてきた。
「なに君、自分の飲んだの?」
「いや飲みませんよ!!」
 わからないながらに反論する。ああそう、自分はわからない。ちっともわからない。だが他人のものを日常的に摂取しているらしい吸血鬼にはいわれたくない。
「恭弥……そんなに嫌か?」
「………」
「オレは恭弥にしか飲ませねぇし、恭弥にも他の奴のなんて飲んで欲しくねぇよ。恭弥が好きだから」
「………」
「いったよな? 他の奴のを飲むつもりなら、オレはお前に飲ませてやれねぇ。………そんなに嫌? 気持ち悪いか?」
「………くない」
「きょうや」
「嫌じゃない……気持ちいいし、でも……」
「うん」
「………おいしくない」
 そっぽを向いた、自称恐怖であるところの吸血鬼はすっかり拗ねてしまっている。そりゃ、唯一の栄養源が口に合わないんじゃ辛いだろうなあ、とツナは思った。だからといって死んでまで血液を提供する気などさらさらないし、ましてやココナッツジュースを提供して馬に蹴られて死ぬつもりも、もちろんないわけだが。それでも、かわいそうだ。
「うあー……ちくしょ」
 もしかしたら同じ気持ちになったのかもしれない。大きく呻いた男は、蹲って頭を抱えた。
「ちょっと何。うるさいな」
「ああちょっと待て」
 吸血鬼を片手で制して、男はぶつぶつやっている。なんとか自分と折り合いをつけようとしているらしい。
 まだ早いと思うんだよな、とかでもここ最近大分背が伸びたし子どもだから体が柔らかいかもしれないし、だとか大体オレだって辛いんだよ、などと独り言は駄々漏れである。首を傾げて伺っているヒバリンはこれはもうさっぱりわかっていないようではあるが、ツナは思い切り頭痛がした。いやな予感がとんでもなくする。
 これが怪物つかいに受け継がれるという超直感だろうか? だが横を見れば伏せている猫男は真っ赤な顔をしていたし、その向こうに倒れている男も紫色の顔をしていた。あれはもともとが青いからあんな色になっているのだろう。
「………大丈夫?」
「ああ。うんだからそのな、恭弥」
「ヒバリンだよ」
 いまさら。
「ああそうだな。恭弥、オレが別のとこでココナッツジュースを飲む方法を教えてやるよ」
「………そんなことできるの?」
「ああ、おまえにはまだ早いかと思ったんだけどな」
「僕は子どもじゃないよ」
「うん、でもちょっと、つかかなり最初は痛えと思うぞ。オレは………いやオレの種族はさ、ちょっと色々あって」
「馬だから」
「ああ馬だから。っていや! 馬って程じゃねぇだろ、たぶん、いやほんと、な?」
 馬らしい。ちらりとすぐそばに倒れてる猫をみれば、涙目で首を振られた。彼の方はなんかトゲトゲしているとか、そんなことはないのだろう。いや、実物を見たわけでなしよくはわからないが。
「よくわからないけど、僕は痛いのなんて平気だよ」
 エヘン、と威張った吸血鬼はどうみてもさっぱりわかってない。わかってから承諾したほうがいいんじゃないだろうか。
「そか、じゃあがんばろうな」
 だが馬は嬉しげに頷くと、ヒバリンを抱きかかえて、城の中央の大きな階段を駆け上っていってしまった。はやい。
「………」
「………」
「………じゃ、その………帰りましょうか」
「うん。………ねえオレ知らなかったよ。あんなかっこいい人でも親父くさい口説き方するんだね」
 思わず漏らすと、それまで我関せずを決め込んでいた魔法使いがしみじみいった。
「人間にはな、見た目がどうでも鍛えてやっても、どうしようもない部分ってのがあるもんなんだぞ」
 かの男が自分の兄弟子だと知ったのはそれから数時間後のことである。

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