ふわふわできらきらの金髪が埃まみれになっているのをみて、雲雀は眉を顰めた。人のものを勝手に汚して平気にしているなんて、全くいい度胸をした馬だ。もぞもぞと布団から首を出すと、ディーノは笑顔で近づいてきた。
「恭弥。起きてたのか」
「汚い」
 いつもの挨拶をしようと図々しく近づいてきたので鼻面を叩いてやる。
「なんだよ。傷つくぞー」
「髪」
 指摘してみたものの、よく見れば髪だけでなく、あちこち満遍なく汚れている。どこで遊んできたのだろう。僕を置いて、………とは思わない。全く思わない。だが同じベッドで眠っている人間を置いて、どこか遠くでふらふらしているとは、なんていうか、そう、礼儀を失したやり方ではないか。
「恭弥ちっとも起きないしさ。さみしかったんだぞ」
「僕は葉っぱの落ちる音でも起きるよ」
「またまたー」
 またまたじゃない。ただちょっと、屋上で寝るのと、この信じがたいほど柔らかいベッドで寝るのでは、同じ昼寝でも勝手が違うというだけだ。
「一緒に行きたかったのにさ。だから予定よりも早く帰ってきちまった」
「………ふうん」
「今度は一緒に行こうな?」
 そわそわ、雲雀は窓の外を眺めた。まあそこまでいうなら許してやらないこともないのだ、うん。
「きょーおや。怒ってんのか?」
 始めからちっとも全く怒ってなどいないのに、薄汚れた父親が後ろから抱きついてきたものだから、怒ってやらなければならないような気になった。こう見えても使命感は強いのだ。
 それに、買ったばかりの寝具も手触りのいい髪も、汚れてしまうのは勿体無い。正直にいえば雲雀は、この父親の髪が嫌いではない。きらきらでふわふわで、子供の頃飼ってみたいと思っていた大型犬に似ている。いやまあ馬でも悪くはないのだが。ほらあれは草食動物だし。
「おいでよ、洗ってあげる」
 寛大にもトリマーの役目を申し出ると、我が父は「えー」と不満気な声を上げた。生意気である。
「恭弥、地肌ひっかくんだもんなー。いてえよ」
「きれいにしなきゃだめだよ」
「髪ひっぱんなよ? ひっぱってもオレの髪はまっすぐにはなんねーんだからな!」
 文句をいいつつも足はいそいそとバスルームに向かっている。たぶんこういうのを「つんでれ」というのだろう。前にテレビか何かで聞いた。成程たしかに、二十歳をとうに超えた男性であるにもかかわらずたいそうかわいらしい。
「なんだよ恭弥は脱がねーの?」
「僕は別に汚れてないんだけど」
 トリマーが脱いでどうするというのだ。ターゲットの犬を洗うだけである。自分でいうのもなんだが結構向いていると思う。ので、犬というよりは馬なものに向けてタオルを投げつけると、早く入れと促した。まったく息子の夢を壊さないで戴きたいものだ。カーゴパンツの裾をめくり、シャンプーとリンスを抱えてバスタブの淵に腰掛ける。足の間に座っているターゲットにシャワーを浴びせると、どうしたってこちらの服も濡れることがわかった。まあ夏だし問題ない。
「それで、あなた何処で遊んできたの?」
「ん? 遊んでねぇよ、仕事だぜ?………っていってぇ! いてぇって恭弥!!」
 頭部を既に人質に取られているというのに、白々しい嘘をつくものだ。部下を連れているのならここまでおおっぴらに汚れてくるはずがない。このへなちょこ。
「シマの見回り。今度恭弥も行こうな!」
「何それ一人で? この前も行ってただろ」
 マフィアかそうでなければ大学病院の回診(イメージ)、この前も大量に部下を引き連れていったのは知っている。見回りなぞ毎日行ってもいいものだし、実際そうして雲雀は並盛の秩序を維持しているわけだ。だがディーノの治める土地は広く簡単に回りきれるものでもない。そして普段はそう暇でもないのだろう。基本的に部下たちに任していることは知っている。
「いやあれは威圧っての? 黒服の団体が歩いてるってだけでな、悪さする奴らを牽制できたりすんだよ。でもさ、こっちがマフィアだって思うとシマの人間も気を許してくれないからな、たまーにこう、一人で普通の格好で」
「………ばれてんじゃないの」
「ばれてねぇって。そりゃここからすぐの街だとな、顔も知れてるけど。ちょっと離れてればなー」
「だって群れて見回りしたりもしてるんだろ」
「してるけど。でもあの人数じゃオレの顔なんて覚えられてもいねぇよ。歳からしても下っ端っぽく見えてるだろーし」
 そうか。いやそうか? ボスボスボスボスいっているのを引き連れているのだ、一目瞭然な気もする。
「面白いぞー。皆打ち解けて話を聞かせてくれたりするしな!」
「………あなたって吉宗みたいだね」
 まあこの人ならそうだろうな、と思う。自分からわざわざ群れに混ざるなんて、如何に風紀のためでも雲雀には耐えられなさそうだ。連想したのは歴史上の人物、いや架空の、といったほうがいいのかもしれない。
「良し……? そうかあ? 恭弥のはかわいいピンクだけどな」
 振り向くとディーノは愉快気に笑った。視線の先、見ればシャワーの水を存分に吸った自分のシャツは肌に張り付いている。ここに着てから買ってもらった、白のシンプルなカッターシャツだ。
「いって、いってえ!! ひっぱるなっつったろ!」
「これ以上馬鹿なこといったら抜き殺すよ」
 南の島に滞在中はさんざんからかわれたネタだ。群れた海もプールも体育の授業も嫌いな雲雀は肌の色が白かったし、もちろん懸案の部分も日に晒されてはいなかった。多少日に焼けたほうが健康的だとディーノに唆されて一日水着で過ごした結果、ピンクどころか全身真っ赤になった。結局翌々日にはほとんど色が変わらないいまま肌の腫れは引いたうえ、赤くなっている間は手合わせで鞭が肌を擦れるたび、ひい、とかぎゃあ、とか悲鳴をあげるいまだ家庭教師も自任しているらしい男がいて、たいそうムカついたものである。
「違うのか?」
「違うよ。八代将軍」
「あー………えー? オレはツナの後乗っ取ろうとか、そんな気はねぇぞ?」
 その発想はなかった。
 正直にいえばそうだ。だがいわれてみればありだ。認めがたい事実ではあるが雲雀も、あの草食動物こと沢田綱吉の実力を買ってはいる。だがディーノと比べてどちらが戦って楽しいかといえばそれはもう疑問の余地はない。それにここまでの組織を動かしているのだから、へなちょこに見えて我が父はそういった才に秀でているに違いない。やれるだけの力があるなら勿論上を目指すべきだ。ああでもこれ以上忙しくなるなんて許せない気も。
「暴れん坊将軍だよ。知らないの?」
「え、いやちょっと待て、待て。あれだろ、この桃所見忘れたとはいわせねぇぞ」
 混ざってる。
 というか正解が含まれていないのだが。
「桃じゃなくて桜だよ。いやそれだと別の人になるけど」
 だがうまく説明できるほど、時代劇に精通してるわけではなかった。お殿様が庶民のふりをして世直しをどうこう、というのがそれっぽいなあと思っただけだ。
「あ、恭弥は桜のほうが好きか?」
「好きじゃない」
 単純に美しいと評価するには思うところが多すぎる花である。
「好きなら右に入れてもいいんだがな………」
 その体はキャンバスか何かか。左が水色で右がピンクとか、馬鹿だ。雲雀はつい笑った。まるで普通の人のような顔をして、勝手に距離を縮めてだがいうのだ、「忘れたとはいわせない」。いわれなくても毎日のように見ている、派手な柄だ。今は泡で埋もれてるけど。
 ああやっぱり吉宗の方が似てるかもしれない。桜の柄のこの人なんて見たくないし、何より向こうはよく馬に乗っている。
「ぷ!! な、跳ね馬、咬み殺す!」
 いきなりシャワーの水が浴びせられる。なにそのしてやったりの顔ムカつく。
「オレも洗ってやるって。そんな濡れちまって、風邪ひいちゃうぞ」
「ひかない」
「ほら寝汗かいてるしさー」
「あなたの指が濡れてるだけだよ………」
 だがさくさくとシャツのボタンを外した長い指が頭部を擦り始めると、予想以上に気持ちがよかった。ぼんやりとした睡魔が近寄ってくる感じがして、欠伸をする。
「ほらいいこ」
「じゃないよ」
「日本人って謙遜するよなー………」
「そう」
「時代劇もな、一回位は観たことあんだけど」
 しゃくしゃくと音をたてて擦りたてられる我が頭皮に、父の集中力は全て投入されているようだ。灰色の脳細胞は全く使用されていないらしい、関連性のない話題が投入される。
「ツナのとこでな。水戸黄門?」
「ああ………」
 どうりで。桃所ってあれか。山梨じゃなくて茨城か。
「人生楽ありゃ………………」
「うん」
「………………そのほら」
「………苦もあるさ?」
「それだ。含蓄ある歌だよなー。あ、目つぶってろよ?」
 マフィアのボスであるのだから、ちっともそうは見えないがそれなりの苦労はあるのだろうか。もしかして。頬にかかる水流がとまって、ぎゅっと閉じていた目蓋を開けると、父親はどこかぼんやりした表情を浮かべていた。
「どしたの」
「え………いや、なんだろ」
「なに」
「ん、いやほらあれだろ。うん、悪い時期も、いい時期もあるって話だろ」
「悪い時期だと思っても、それなりにいいこともあるよってことじゃないの」
「そうなのか」
「………たぶん?」
 口に出した方が驚いてしまってるとはどういうことだ。まるで自分が口にしたとは思えない結論で、でもどこか納得している。嫌なこと。障害物。そんなものがあるなら排除するなり乗り越えるなりすればいいだけの話で、だから雲雀はそのときのことは考えない。でも、排除するまでは確かにムカついているのだ。でもそんな時でも、いいことはあるのだ。これからは。
「いやー………その、なんかあれだな、それって」
「………」
 いいことは意味不明の声をあげた。大丈夫だろうか。
「結婚式みたいだな」
「頭?」
「単語で聞くなよ! 似てるだろ、病めるときもーみたいな」
「叩けば直るかな………」
「健やかなるときもー、恭弥はいる。オレのいいこと!」
「………………僕は男だよ?」
「男でも親子でも実際結婚できないのは一緒だろ。それでもあれだぞ、子どもに『大きくなったらお嫁さんになる!』っていわれるのは父親の夢らしいぞ!」
「そうなの?」
「本に書いてあった!」
 何を読んだんだろう。さっぱり使われている形跡のない彼の書斎に「家庭の医学」があるのは知っているのだ………できれば変な気は起こさず医学の心得のある部下に丸投げしていただきたいと未来の患者としては願うところだ。
「………いわれたいの?」
「是非!」
 この雲雀恭弥が根負けするほどのきらっきらした瞳である。大きく深呼吸を三回して、それからまだ足りなくてもう一回する。つまりあれだ、現実的にどうこうという話ではありえないのだから、それだけの覚悟があるかどうか、という意思確認だろう。何を恐れることがあるというのか。
「成人したら………あなたと結婚してあげてもかまわないよ」
 僕はいつでも好きな年齢だけど。と、続けなかったのは空気を読んだのでもなんでもなく、プロポーズの相手が奇声をあげて泡だらけの湯船に沈んだからだ。
「うっわ、わ、あー………うあー」
「ちょ、あなた、どうしたの」
「予想外っていうか予想以上っていうか………すっげえ破壊力だこれ………」
「なにが」
「ちょううれしい」
「馬鹿じゃないの」
「いやそんなことねぇって! おまえ一度いわれてみろよすごいぞこれはいやなんかもう!」
「馬鹿じゃないの」
「んなことねえっておまえほら大人になったらオレの嫁さんになってください!」
「………馬鹿じゃ」
「………きょうや口唇がむずむずしてるぞ」
 かっぽーん、というかぽっかーんというか。国が違っても風呂場というものは随分音が響くものだ、と雲雀は思った。
「いってえな! この乱暴者………あ、恭弥のぼせた? 大丈夫か」
「のぼせて」
「るよなー。夏だし、あっちいもん。あがったら、冷たいもの飲もうぜ」
 泡だらけの男はいかにも適当に自分と雲雀にシャワーをかけると、バスタブのそこに沈んでいたシャツを絞った。
「ちょっと、待ちなよ」
 慌てて盛大に水を含んだカーゴパンツも脱いで絞り、バスローブを身に纏う。既に勇ましい父親は大して体を拭きもしないでクローゼットに突入せんとしていた。
「ん? すぐ欲しい? アイスティーでいいか?」
「床濡れてる。こういうときはコーヒー牛乳なんだよ」
 タオルを押し付ける。クローゼット方向を向いたものの途中で方向転換した水滴のあとを見ながら、雲雀は諦めた。この無駄に広い屋敷には掃除専用の人員がいるというのだから、まあ、なんか、たぶんいいのだろう。
「聞いてみるけど………カフェオレじゃ駄目なのか? あ、ケーキ食おうぜケーキ!」
「ケーキ?」
「ジュリオの店で買ってきた! うまいんだぜーレモンのやつ。あ、おばちゃんがおしゃべりでな、情報収集にもいいからよく行くんだけど」
「………ふうん」
 僕を置いて、とは思わない。全く思わない。いかにも群れてそうな話である。
「ジェラードもうまいんだけどなー、溶けちまうし流石に。あ、明日にでも行かねぇ?」
「行く」
「ボス」
「ピスタチオのがうまいんだぜー………お、ボノか。どうした?」
 ノックの音がして、雲雀は慌ててバスローブの紐を縛った。男同士であるし、父親は全裸で平然としているのだから、気にしすぎなのかもしれなかった。だが何か風紀が乱れそうで落ち着かなくていけない。
「おう入るぜ………ってボス!!」
 よく顔をあわす、体の大きな父の部下は真っ赤になって口をぱくぱくさせたまま入り口あたりで固まっている。常々イタリア人というのは恥じらいというものが不足している人種だと考えていたのだが、もしかしてそれは、我が父限定の話なのであろうか。大変に、とんでもなく、遺憾な話である。
「あなたばかじゃないのほらこれ」
 彼の頭の上に載っていたタオルを、もう一度とりあえずその手に押しつける。さっさとその遠山の町奉行だとか将軍だとかを隠せというのだこの馬鹿!
「あ、あんがとな。ボノ、なんかあったのか?」
「や! 違う! ほらあれだ例の報告書をな! 五時位までに読んどいてくれればいいから!」
 赤いまま大男は大きく首を振った。一瞬で厳しい顔になったディーノに書類を押しつけたかと思うと、次の瞬間には盛大にドアが閉まる音がする。
「………なーんだ、あれ?」
「あなたの躾がなってないか、買い食いツアーがばれてるんじゃないの?」
「な! 裏口から帰ってきたし! いや、買い食いツアーじゃなくて見回りだ見回り!!」
 買い食いツアーらしい。まあ、たまには気分転換でもしたくなるのだろう。雲雀は寛容に頷いた。明日にはピスタチオのジェラードを思いきり食べてやるのだから。あとチョコのも。せっかくのイタリア、食い尽くしてやろうというものである。











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