「……なにこれ」
「桜鍋?」
「食べられないよこんなの」
「好き嫌いは良くないぞー。食わず嫌いをしないで食文化には敬意を払えよ。」
 へらり、とディーノが笑う。そういう問題じゃない。なんかこうぐらぐらぐらぐらする。



 久しぶりに川で修行といわれ、喜び勇んでついていったはずだったのに、結局ほんのちょっと戦っただけで気づくと屋形船に乗ってその川を下っていた。まあ悪くはなかった。夜空と川面に映る花火は美しく、対岸のことと思えばそれを見に集まっている群れのこともさほど気にならない。点火の瞬間以外は暗く、遠目では顔すらはっきりしないのも幸いした。船内の座敷は五十人は優に収容できそうな程広く、そこを雲雀とディーノと彼の部下十数人で占めているのでかなりスペースに余裕がある。余裕があるとはいえ部下らと同室、花火ごときで所謂「いいムード」になぞなろう筈もないことをいまだに悟らないイタリア人に構わなければ、まあいい夏の一日だったといえなくもない。
 しばらくすると料理が運ばれはじめた。店員が構うのを嫌う雲雀を慮ったのか、先付から始まってご飯と水菓子以外のほとんど全てが座卓に並べられる。衝立の向こうでは、確か護衛も兼ねていると聞いた彼の部下たちがすでに出来上がったような声をあげていて、つい眉を顰めた。
「いいわけ? あれ」
「今日は慰労会? ……みたいな。だからいつもはホテルに待機させてる奴らとかも連れてきたんだ。皆日本の花火を楽しみにしてたんだぜ。それにこんなあっちーのに、ビール飲まずにやってられっかって」
 まあ確かに気持ちはわからないでもない。川面を吹く風を差し引いても充分に暑かった。今日は熱帯夜だ。どーん、と音がして夜空が藤色に、次いで紅に染まった。つい見惚れて、食べる手を止める。
 まあ恭弥がいれば大丈夫だろうしさ、と冗談でもなさげにディーノがいった。当然だ、と答えながらも機嫌が良くなっている自分に気づく。我ながら簡単だ。胡麻豆腐をつついていた手を止めて、ディーノの前に置かれたジョッキを爪ではじいた。
「ねえ、それ僕にも」
「え、いや恭弥弱いしさ」
「僕だって、暑いよ」
 料理は、普段連れられて食べに行くホテルや高級店に比べれば少し、というかかなり味は落ちたがそれでも食べられなくはなかった。とりあえず刺身はおいしいし、全て花火が帳消しにしてくれる気もする。だが飲み物、特にソフトドリンクは悲惨だった。手酌でつげとばかりに置かれた小さなグラスと瓶の甘ったるいオレンジジュースではさっぱり涼しくならなかった。
「……まあいいか。飲みすぎるなよ」
 素直に渡せばいいものを、ディーノは自分で飲ませたいらしい。雲雀の唇に当たるようにジョッキを持ち上げると、少しずつ傾けてくる。まず最初に苦味が来て、それから冷たい液体が喉を通っていった。躰がすうっと冷えて、それから暑くなる。顔が火照るのが自分でもわかった。
 もう少し、と視線で強請るとしようがねぇな、と頷きもう一度ジョッキを手に取る。だがそこで動きが止まった。気づけば店員が二人こちらに近づいてきている。この程度の飲酒、珍しいものでもあるまいにたいしたマフィアのボスだ。風紀委員長らしからぬことをぼんやり考えながら雲雀は店員が運んできたものに目をやった。早々にデザートも運んできたのかと思ったのだが彼女たちが手にしていたのはコンロと、大量の肉に野菜、そして鍋。
 ……鍋? 
 そこで冒頭の会話に戻る。



「下町の名物料理だって聞いてさ。一度食ってみたかったんだよな。船についてくるセットの食事とは別に、専門店から取り寄せてもらったんだ」
 健啖すぎるほど健啖なイタリア人は、すでにそれだけで量が多い天麩羅の皿を脇に置いて鍋や盛られた肉を興味深げに眺めた。女性二人は、さっぱりしているから外国の方も好まれますよとお愛想を言いながら、手際よく鍋に割り下を注ぎ肉や野菜を並べると空になった何枚かの皿を運んでいった。先ほど見た店員とは着物が違うから、もしかしたらその専門店からわざわざ呼んだのかもしれない。豪気な話だ。
「どうした、恭弥」
 ぐつぐつと煮える鍋を何とはなしに眺めているとディーノが話しかけてくる。とりあえず鍋は夏に食べるものじゃないのだけは確かだ。冷麦と冷麺と冷奴で人は生きて行ける。そういう人に私はなりたい。
「食えよ。高蛋白低カロリーで、馬肉は体にいいんだぞ」
 椀に注ぐとディーノが差し出してきた。へなちょこなりに気を利かせて肉も野菜も白滝も一通り、つまり山盛りいっぱいで。誉めてやろうかと思わないでもないのだが、如何せん食指が動かない。甘い匂いの混じった湯気が立ち込めるとどうにも頭がぼんやりする。
「何それ。自画自賛?」
「ちげーよ。いい加減馬扱いすんのやめろよな」
 すぐに意味が通じる時点で、本人も結構意識してると思う。
「……あなたは、あれなわけ。僕に食べられたいとかそういう」
「んなわけねえだろ! 変な目で見んな! ……ていうか恭弥こそ、オレを食いたいとか思うわけ?」
 恐る恐るといった感じに聞いてくる。馬鹿だ。本物の馬鹿だ。
「日本にいるんだから日本の肉を食べたいよ……。これ輸入肉?」
 いろいろと問題が多い昨今だ。気にならないわけではない。狂馬病なるものがあるのかは知らないが、とりあえず目の前の馬はいかれてるわけだし。
「……さあ。イタリアも輸出してるはずだけどな。でも向こうじゃカルパッチョしか食ったことねぇな。煮たのは初めてだ。でも日本人ってフランスでオランダ人の肉食ったりしたんだろ? 何でそんなことに拘るんだ?」
 そういえばそんな猟奇事件があった気がする。雲雀はうんざりした気分でディーノを見て、目の前の肉を見た。繊細な自分には耐えられない話だ。味噌風味のすき焼きのような鍋らしい。野菜も多くて問題などあろうはずもない。肉を一切れ口に入れると、予想したような臭みはまったくなく、甘くとろけた。おいしい。でもじゃあ何でこんなに頭がくらくらしているのだろう。
「……血生臭い話しないでよね」
 ディーノは大きく目を見開いた。
「どうした、恭弥?」
「別に。そういう話を聞くと気分が悪くなる」
「……具合、悪いのか?」
「へ」
 雲雀はぼんやり答えてぼんやり考える。そういえば悪いかもしれない。いくらなんでも鍋一つでこんな風になってしまうのは変だ。
 答えないでいると、あわててディーノは衝立の向こうで酒を飲まずに宴席にいるという苦行に耐えていたロマーリオに船を岸に着けてくれと頼みにいった。しばらく話し合っているような声がした後、部下を何人か連れて戻ってくる。
「大丈夫か恭弥。ああ、顔真っ赤になってるじゃねぇか。貸切だから他の奴らはまだ船に乗ってるけど、オレとロマですぐお前をホテルまで運ぶから。……いや病院のほういいかな」
 救急車だ、とかすぐに宴会なんて取りやめにしたほうがいいとか、部下が口々にいう。雲雀は気分が悪い中でもむっとした。煩く構われるのは好きではない。
「平気だよ。……ちょっとくらくらするだけだから。僕は寝てるからあなたは飲んでて」
「だって血生臭い話が嫌とか絶対おかしいよお前。変なものとか食ってないよな」
「わかんない……鍋が出てきてから頭がぼうっとして……」
 思い返そうとするが頭がはっきりしない。眉間に皴を寄せると、顔を覗き込んでくる。ふ、とまた意識がゆれた。
「鍋って……桜鍋だよな。ひょっとしてサクラクラ病とか?」
「え」
 そんな筈はない。前に薬を飲んだのだ。獄寺にもらった。ていうかそれ以前に。
「違うよ……あれはもう治ってる。それに馬肉の鍋まで範囲にはいるわけないだろ。桜の絵とか写真だって平気だったし」
「わかんねーだろ。本当に完治したのか? 効果が持続する期間とかあるんじゃねーのか? ……ちっくしょ、シャマルを問い詰めてやる。すぐ薬もらってきてやるからな」
 船が止まるとディーノは雲雀を横抱きにする。残った力で思い切り殴ってやったのに、平気そうな顔をして頭を撫でてくる。抱きしめられるとまた。雲雀は奥歯を噛みしめて、何とか意識を保とうとした。
「恭弥」
「……ん」
「今車来たから。おろすぞ」
 後部座席に雲雀を下ろすと自分も横に座った。ふう、と息を吐くとディーノは笑った。安心させるためだとわかっている。
「桜鍋が駄目ならオレも駄目かもなー、恭弥」
 オレは馬だし、と冗談めかしていう。どうにか雲雀は目を開けた。優しげな琥珀の瞳。それに吸い込まれそうになっている自分を感じて雲雀は思った。そうかも。
「……うん、駄目なのかも」
「え、……きょう」
「だってあなたを見てるとぼうっとするし、髪を触られるとくらくらして、キスされると何も考えられなくなるし……今みたいに笑われると胸が痛くなる」
 サクラクラ病の所為なんだね、とぼんやりした瞳で雲雀は頷いて、意識を失った。
「……」
「愛されてんなー、ボス」
「……うるせぇよ。恭弥? そこで納得するな、恭弥。起きろって恭弥―」
 しばらく揺さぶっても、雲雀が目を覚ますことはなかった。



 直射日光の下戦って船に乗せて酒飲ませてこの季節に鍋を食わせて、気分が悪くなって当たり前だと、問い詰めに行ったディーノが逆に殴り出されたのは一時間後の話。薬は手に入んなかったといいながら車に乗り込んだボスはすげー幸せそうな顔をしてたんだぜ、とあとでロマーリオが雲雀に語った。











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