真夜中にふと目が覚めた。
 床照明のおぼろげな光でもわかる細かい花柄の入った壁紙だとか、やたらがばがばと糊のきいた綿のシーツだとか、そんなものでここが我が家ではないという判断は容易に可能である。そしてすぐに記憶は呼びおこされて、自分が今どこにいるのかを思い出した。ここは日本の、山奥にある小さなホテル。その一室。明日もまた、体力勝負な仕事が待ち構えてもいる。
 つまりオレには存分な睡眠が必要とされているということだ。オレは一つ溜息をついて、幼い頃のあれやこれやでなんとなく親近感を持っている罪のない草食動物の頭数でも数えてみようかと思いついたが、正直いってそのくらいで簡単に眠りの世界が扉を開いてくれることはないだろう。もうさっぱりどこかにいってしまった眠気からも、それは推測できる。
 ああまったくもう。オレはごろりと寝がえりをうって、そして隣にあるベッドが目に入った。そこに横たわる人の黒くてまんまるい頭もまた、よく見える。東洋人の髪は皆黒い。それは知っている。だが、学校の屋上で西日に晒されたその髪はまるでこれから来る夜を象徴しているかのように深い黒を湛えていたのに、今、闇の中で見るそれは、僅かな、いや殆どない光源を集めて反射しているみたいに、輝いている。オレは思わず口唇を緩めた。どこの智天使だってここまでかわいらしくも、微笑ましくもない筈だ。
「………ん、ん、うん」
 ごろりと恭弥が寝返りをうって、オレは息を呑んだ。いやいや、というように恭弥は腕を動かして、それからこちらを向いたまま、すう、と息を吸った。よく寝てる? いやどうか。そういえば人の寝顔を見るなんて、殆ど初めての経験かもしれない。学生の頃収容されていた学校の寮では、マフィアのボスの息子ってだけで有無をいわせず一人部屋だった。正直それも益体もない苛めの理由の一つになっていた気も今ならするのだけれども、あの当時赤ん坊姿の家庭教師が堂々御教育なさるつもりの状況下では、部屋に戻れば殆ど他人の目がないというだけでずいぶんと気が楽だった。そんなこんなでオレは同居人に迷惑を被った経験もないし、マフィアのボスとなってからは相部屋などとてもとても。
 
いや我が名誉のためにいいはっておくと、これはもうマフィアのボスとしてそれなりの女性経験はある。へなちょこの男子中学生であればそれはもう同年齢の女子には当然羽虫かのごとくな扱いを受けるわけだが、さて一旦マフィアのボスになってみれば、どれほど寛大な対応を享受する事態になるか、いやまったく、一晩で人間不信に陥っても無理はない程だ。あ、今の一晩っていうのはそういう意味の一晩ってことじゃなく。だがまあとにかくオレは、マフィアのボスってだけでそれなりの頻度で誘惑に晒され、そしてそれなりの頻度で男の理性ってものの儚さが諸行無常の理をあらわしているんだろうなあと諦観するくらいには誘惑に屈してきているわけだが、同じくマフィアのボスだっていう理由で彼女たちと一緒に寝たことはない。ああ、まあつまりなんというか、同じベッドで、上下に重なって寝た事はあるが、左右に並んで寝たことはない。こういってお分かりいただけるならばだが。ことが終わればすぐにアディオ。リップサービスでも、チャオといってやったことすら、数えるほど。こういうとまるで最低の男のようで、実際そうなのだけれども、あちらさんもこちらの職種も要望も知って近づいてきたのだから、これもまたビジネスだったといえなくもないのではなかろうか。
 だがそんなわけでオレは、教え子の様子にひどく気を使った。屋上のコンクリートの床の上でも応接室の小さなソファの上でも、今にも寝てしまいそうな様子をみせた、その癖眠りが浅いだの葉が落ちる音でも目覚めるだのと、数時間前如何にも繊細そうなエピソードを聞かせてくれた人である。下手なことをすればすぐに起きてしまうかもしれない。オレは息を詰めて弟子の様子を見守った。実際「葉が落ちる音」とやらは何デシベルあたりに相当するのか。そして今のオレの呼吸音やら寝がえりの時に発生する音は、それに対して大きいのか小さいのか。そこらへんの情報がない今の状況では、とりあえず音をたてないように気を使うばかりで、よく考えるとこれではどうにも寝つけそうにない。閨を共にするとはかような苦労をわかちあうことなのかと、オレは既婚の部下たちへの尊敬の念を深くした。御苦労なことだ。
「ん、………………んん」
 恭弥は小さくくぐもった声をあげて、オレは驚いて飛び上がりそうになった。やっぱり煩かったのだろうか。シェークスピアの言を引くまでもなく、快い眠りこそ、自然が人間に与えてくれる優しく懐かしい看護婦である。その崇高な業務の邪魔をするのはどう考えてもよろしくない。大体本人の意向も無視して人を起こそうなんて、童話に出てくる王子様でなけりゃ、相当無神経な奴に違いないのである。
「んんー…」
「ぅお」
 とか考えておきながら無神経なオレは思わず悲鳴をあげそうになって、必死で飲み込んだ。くぐもった声は我が弟子が発したものに相違ない。
「んんん」
 きゅう、と眉を顰めたまま、弟子は親の敵みたいに布団の端を捻った上に引っ張っている。ああこれは。
「きょうや」
「ん」
「きょうやー………起きてる?」
「………………………起きてない」
 どの口が。つんと尖がったそれをつつきまわしてやりたい、このじゃじゃ馬め。だが素直じゃない弟子の性格は重々承知しているので、オレは潔く飲みこんでやった。
「じゃあ、なぁ………起きろよ」
「………………もう起きてる」
 もぞもぞと上半身を起こすと、俯いたまま頭を振る。むずかってる子どもみたいな仕草だ。オレも起き上がると、手を伸ばしてかわいい弟子の頭を撫でた。このような安ホテルのいいところはベッドとベッドの隙間がとんでもなく狭くて、いちいち布団から抜け出さなくても、弟子を寝かしつけようとしてやれる点にある。
「ごめんな。起こしちまったか」
「違う。起きてた………なんか、寝苦しくて」
 起こしたら咬み殺すと、わくわくきらきらぴかぴかした瞳で宣言されたのは数時間前のことだ。いくらでもいいようはあるというのに、何て正直で純真で清らかな子どもだろう。汚れきった大人としたら胸が痛い程だ。
「そっか。大丈夫か? 寝られない時ってあるよなー………今日の手合わせはちょっとあとに始めるようにするか」
「やだ」
「いややだっておまえ」
「平気だよ。もう寝てる」
 ワオ。一瞬自分が日本語の現在進行形だの何だの、文法の初歩すら掴めていないのかと途方に暮れてしまった。今寝ていたら、ごく当然の事実として、寝ているのだとは表明できない筈だ。嘘がつけないというよりもつかない方がいい子なのかもしれない。
「それならいいけどなー。羊でも数えてみたらどうだ?」
「もうやった。駄目だよ、それ」
「あーそっか。まあそうだよな」
 大体この民間療法は、sheepとsleepの発音が似ているから発生したもので、言語の異なる自分たちにはたいした効果は期待できないだろう。それに、自分だってこんなことで眠れたら苦労しないぞと、眠れない際の対処法として思いつくなり却下したばかりだ。ごろりともういちど身体を横たえると、恭弥もつられたみたいに布団にもぐりこんで、真面目な顔で睡眠に取り組もうとする様子を見せた。いいこである。
「それじゃ歌とか…は自分で歌ったら眠れないよなあ。じゃあ」
「やめてよ。あなた音痴だから」
「へ? いやそんなことねーだろ」
 提案する前に却下されてしまった。なんてことだ。
 確かに数日前、並盛中学を訪れる人間の当然の心得としてその校歌を習得することを勧められた際、大人しく提案に従って数度その平坦なメロディを歌ってみたりしたのだったが、あなた外人みたいな歌い方するねと、あなた外人みたいな歌い方するねと切って捨てられた。ちなみに今のところ日本国籍を取得する予定はないし、みたいもなにもありはしない。外人である。そして傷ついた方が負けな気がして強いて考えないようにしてきたが、オレは音痴じゃないと思う。多分。
「じゃ、こっち来るか?」
「………あなた、馬鹿じゃないの?」
「いやおまえそゆこというなよ。誰かと一緒に寝た方が安心するもんだろ」
 とかわかったようなことをいったオレだって、思いつく限り誰かと一緒に寝たことなんてないのだ。まともな自尊心を持った人間なら、口に出した瞬間羞恥で顔が赤くなって当然であろう。
「そんなことないよ」
「いやそんなことあるって」
「ないよ」
「ある!」
 だがあろうことかオレは、気づけば自信満々に宣言していて、ちょっと自分を隅につれていってぼこぼこにしてやりたい………とかそれなりに血の気の多い暗殺部隊幹部の一員ならまず考えるところだろう。生憎オレは平和を愛するマフィアのボスなのでそんな物騒なこと………ほとんどまったく思いつきもしなかったけれども。
「ふうん」
「ん? どした、恭弥」
 恭弥はもぞもぞと再び身体を起こして、オレを、ていうかオレの布団をまじまじと凝視して、オレは何とも落ち着かない気分になった。いやほら冗談だぞ、今のは。
「寝る。ほら、ちょっと詰めなよ」
「え?」
「それじゃ寝れない」
 といって、頬をふくらました弟子がオレは師匠じゃなくて頭陀袋なんじゃないかって勢いで蹴り飛ばして、自分の身体分のスペースを確保しようとした。痛い。いやこれはきっとオレに変な誤解をさせないためのあいつなりのやり方なんだ、うん。てか、おまえ、本気で寝る気か?
「え、や、ちょ………きょうや?」
「大人しくしてなよ」
 耳に注ぎこまれた甘い囁き。最悪である。オレが恭弥と同じ年頃のうら若き女性なら、即座にレッドカードを掲げたところだ。だがオレは男で成人していて恭弥の先生であるからして、うん、きっと多分そんな理由のどれか一つがなんとかして、きゅんとした。すっげーした。なんでだかわけがわからない。
「いや、なあ………おまえなぁ」
「うるさい」
 とかいう声もほんの少し舌足らずだ。きっと今は、いや見えなくとも感触で明らかであるのだけれども、あのちんまりしてちょっと赤いかわいい鼻が、オレのあと十セットはトレーニングを増やそうと今決意された胸筋に押し当てられているのであろうむずむずするんでやめてもらっていいですか。
「いやだって、くすぐってーだろ?」
「我慢しなよ」
「我慢できねーよ」
「そこ、を………やんとかしなよ」
 かわいい顔して我が師よりもスパルタな弟子がいう。あ、そういえば我が恩師も顔だけはかわいかったかもしれない。あまりに恐ろしくて冷静に鑑賞したことはなかったけれども。
「………恭弥?」
「………………………………………ゃに」
 
もう返答は期待していなかったタイミングで返された返答に頭を抱える。ここは潔く諦めるべき状況なのだろうか。
「きょうや」
「………ん」
「…起きてる?」
「………………うー、ん」
「あー………寝てる?」
「ん」
 いやなんではっきり。だがオレはそこで潔く反論を封印した。彼が充分な睡眠をとるのは、オレにとってだって最重要事項である。それに相手はかわいい弟子だ。まだ子どもの、睡眠を必要としている弟子なのである。
 それに正直にいえば、嬉しい気持ちもないではない。いうなれば、反抗的な野良猫がやっと懐いた、みたいな達成感。いくらオレがマフィアだってだけの理由でいい歳して他人と同衾した経験がないからといって、そしてそのせいでちょっとばかり落ち着かない気分になるからといって、突き放すなんてもってのほかだ。ついでにいえばこの、滑らかなほっぺたをつつきまわしたい欲求ももってのほか、と却下するよりないのだろう。
「いい夢みるんだぞー………」
 その夢の中で、願わくばオレが咬み殺されてませんように。慈悲深き我らの父に祈って、オレは瞼を閉じた。











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