「ん? んん………」
「は、………きょうや…」
 歯列を確かめるように前歯を舌でなぞると、驚いたように隙間があいた。誘い込まれたように入った口内はあまりに熱く、口蓋の裏を掻くと、腕の中の華奢な身体が震える。
「ん………」
「は」
 ディーノは宥めるように喉元を撫でて、固まっている舌先を自分のそれで擽る。そのまま擦り合わせて絡めて、全部の感触を確かめようとした。あまりに甘く、そして滑らかだった。がたり、とどこかで音がして、そのまま、まるでゆっくりゆっくりと、奈落に落ちていくような心地がした。気持ちいい。
 触れた頬は熱く、そして濡れていて、そのことに気づいたなり、腹の奥に火が灯ったような喜びを覚えた。名残惜しくも唇を開放する。そして、ほんのり塩味のする涙のあとに舌を這わせた。これは全部、自分のために流されたものだ。そう思うとディーノの目頭も燃えたように熱くなって、擦り合わせた頬の上、滴り落ちた先の手の甲や首、そこで自分たちのそれは混ざり合ってしまったことだろう。
「ああ、きょうや、きょうや………」
 陶然といとおしい名前を口にする。もう一度、あの甘い唇を味わいたい。ディーノはゆっくりと首を傾けて
「んん、………ディ、ノ?」
「きょ……………………きょうや?」
 そして名前を呼び返された途端我に返った。自分は今何をした? この、かわいい、無垢で幼い子どもに何をしたろう。
「ご、ごごごごごめん! 悪かった!! 恭弥!!!」
「なに?」
 呆然とする。自分がどうしようもない人間であることはよくよく承知しているが、だからといってこんな馬鹿なことをしでかすとは思いもよらない。ついうっかり子ども相手に………いやついうっかりってなんだ、とディーノは自分で自分に突っ込んだ。そんな言い訳で済むようなら警察も復讐者もいらない。さっき犯した失言とどっちがましかという話で、いやどっちも駄目だろう。だがさっき以上にこれは駄目だ。多分法的に駄目だ。よくは知らないがまともな先進国なら、このような所業は罰せられてしかるべきだ。
 ディーノはとりあえず勢いよく頭を下げた。ああ、今日はこの子に謝ってばかりだ。だがそれくらいで許される筈がはないのはわかっていた。他の誰よりも自分は、こんなことをしてはならなかった。だって彼の父親なのだから。だがなんで自分はよりにもよって、こんな非道なことをしてしまったのだろう。
「どんな言い訳をしても許されねぇのはわかってる。つうか自分でも訳がわからないというか、なんでオレはこんな…」
「なにが?」
「………………なにが、って?」
「なにが許されないの?」
 罪悪感を感じざるを得ない、とろんとした瞳をまたたかせて小さく首を傾げてみせた我が子は、本当になにがなんだかわかっていないように見える。説明しようとディーノは口を開けて、そして閉じた。だって最悪だ。あれこれ言い訳する前にまず腹でも切ってくるべきなのではないだろうか。
「………だってその、キス、しただろ、おまえに今」
 だがいわなければならない。いくらこの子が優しく、これと決めた、身内と定めた人間には鷹揚な態度をみせる傾向があるとはいえ、それに甘えてなかったことにしてしまうなんてよろしくない。こんなわけのわからないことは二度となく、父親としてきちんと彼を育てあげようという心構えであることを納得してもらい、そして新たな信頼関係を築いていきたい。例え今弁解の台詞が、さっぱりまったく思い浮かばない状況であってもだ。ああ、まったくなんでこんな馬鹿なことを。
「キス?」
「………あ、ああ」
 単に復唱しただけなのはわかっている。だが、まだまだ子どもだと思っていた我が子が「キス」だとか口にするだけで、何とも居たたまれない気分になった。
「そんなの、いつもしてるじゃないか」
「………………………………え?」
 思わずディーノは耳を疑って問い返した。いつもってなんだ? 
「朝とか夜とか出かける時とかしてるだろ? あなた忘れたの」
「いやおま………え」
 忘れるわけがない。挨拶や親愛の情を示すキスはイタリアでは一般的な習慣であるけれども、日本ではそうではない。だがそれでも、少しずつ雲雀もなれてきていて、たいそう微笑ましく思っていたのだ。だが、このような些細な、親しみを込めた触れ合いと、今自分がした愚かしい行いは根本的に違うものである。それくらい、いくら子どもといっても、なんぼいっても中学生である。わかっていていい筈のことではなかろうか。
「それとこれとは違うだろ」
「なにが違うの」
「なにがって………だからさっきのは、ほら」
「うん」
「………あれだろ。ディ………ディー…」
「ディー?」
「ディー………くそ」
 いえない。小学生かよと自分でも思うが、ディープキスなんてとても口には出せない。なんといってもディーノは、テレビや映画を見ているときちょっとふしだらなラブシーンがあっただけで、ごほんごほんと咳払いをして息子の注意をそらそうとする、風紀に厳しい父親なのである。
「あ、ディーノ?」
「いや違うから。なんでオレの名前が冠されてんだよ」
 とはいえ突っ込む。そんな恥ずかしいことになったら、一生人に名前を名乗れなくなってしまう。
「だって、あなたがしたことだから」
「………………そうか」
 かわいい。
 いやそうじゃない。そういう問題ではない。ディーノはぶんぶん首を振って、それから大きく息をついた。
「とにかく、今みたいなキスはもうしちゃだめだ。さっきのはオレが悪かった。忘れてほしい」
「やだ」
「いや、やだじゃなくてな。ああいうのはあれだ、家族ではしないものなんだ」
「………そうなの?」
 雲雀が驚いたように目をまたたかせる。「家族らしさ」に拘る子としたら、そこは重要なポイントらしい。実際何も間違ったことはいっていないので、ディーノは殊更大仰に、大きく頷いてみせた。
「そうだ。ほら、ああいうのは大人のキスだからな!!」
「………………………なにそれ」
「んん?」
「なにそれ子ども扱いしないで」
 ぷんぷくりんと頬を膨らました子どもを見てディーノは悟った。やばい。自業自得であるとはいえやばい。というかまったく何でこんな子どもに、いくらかわいいからって。
「違うって子ども扱いじゃなくてな、親と子はしないって」
 仕方がないので、機嫌が直るまでゆっくりと背中をなでてやる。というかよく考えてみれば兄弟とも祖父母や親戚ともたぶんしないと思うのだが。
「うそばっかり、だったら大人のじゃなくて親のキスっていうだろ」
「えー…? いやそうかもしんねぇけど」
 親のキスってなんだ。思春期は見たくないものベスト5に入りそう、みたいな。膨れた頬をいつものようにつつく。吹き出物一つない、思春期とは思えないほどすべらかな頬はやわらかくて、ああほんと、まだまだ子どもだ。
「だいたいあなたがいったんだろ。家族にはなにが正解ってものはない、って」
「ん? ああ、いったけど」
「だったらキスしない家族もキスする家族もあっていいだろ」
「へ? いやいやそれは………おまえなぁ」
 ていうかさっきからそんなかわいい顔してキスキスいわないでほしい。いたたまれない。ディーノはヒバリの肩口に顔を埋めると大きく息をはいた。
「当人同士が納得していれば問題ないってことだろ」
 いやそうだけど、家族でなかったらそうだけど、おまえ理解すらしてないだろどうみても。ディーノは反論を何とか飲み込んだ。こちらからあのような無体な真似を行っておいて、いや自分は納得しておりませんなぞといえるはずがない。
「いやでもだって………あー………………おやぁ、もしかして恭弥、キスしたいのかぁ?」
 もちろんそんなことはないことは知っていて、ディーノはからかうように聞いた。苦肉の策だ。ほんの数カ月ほど前まで朝のキスの度に、息を詰めて顔を真っ赤にして頭突きするみたいな勢いで顔を近づけてきていた子だ。今は多少慣れてきているといえなくもないし、親子として親しく生活することに拘ってはいても、もともと過剰なスキンシップをそう好む人ではない。きっとそんなわけないだろと怒りだすに決まっている。
「………………別に」
「ええ!!」
「なにええって、僕は別にっていってる」
「うー………いや恭弥な」
 別にっていうときはおまえだいたい。
「ただキスはしなきゃだめだよ。絶対にしなきゃだめ」
「なんで、おまえ………」
「とにかく、僕は僕がしたいときにあなたにキスをするよ」
「おつかれさまでしたー!!」
「「え」」
 そもそもいつのまに観覧車は下り始めていたのだろう。先程より更に自棄になったみたいな声音で係員は挨拶を叫んで、ディーノはあわてて狭い観覧車の中で可能な限り我が子から距離をとった。確かに自分がした愚かしい過ちは罰せられてしかるべきだが、それは雲雀の手によってそれともトンファーによってされるべきであり、公の司法の場に引き渡されるというのはあまりに望ましくない。ディーノの自業自得といわれればそれまでだが、多分部下は泣くだろう。父親にキスされたり恥ずかしい台詞をいわされているんだねとか取り調べされたら、この純真な子の心も傷つくに違いない。
「申し訳ありませんが、あと十分ほどで閉園時間になっておりますー!!」
「あ! はい!! すみませんっ!!!」
 どうやら通報はされなさそうなので、慌ててディーノは立ちあがった。よくよく考えてみればなにも雲雀はディーノ………じゃないディープキスをするよとはいっていない。親子が挨拶として頬に唇を寄せるのはあまりにあたりまえのことであるから、この優しい係員さんも、微笑ましい家族だなぁとそう思っていらっしゃるのかもしれない。
「ほ、ほら、恭弥行こうぜ!」
「う、うん…」
 茹でダコみたいな顔をしてトンファーの柄を掴もうとしていた息子を促す。危ないところだ。
「足元にお気を付けくださいー!」
「はい! ありがとうございます!!」
 日本の遊園地の係員さんは神様か。ディーノは慌てて観覧車から降りると、雲雀に手を貸した。もうすっかり暗くなって、視界が狭く、確かに足元が見えづらい。
「転ばないんだ…」
「ん? どうした?」
 少し早歩きで正門に向かっていると、ぽつりと雲雀がそんなことを零した。先ほどもご指摘されたとおり足元は暗いが、だからって大げさにも程がある。転ぶはずがないだろう。思わず笑って問いかけると、がばりと頭を上げた我が子は真剣な表情を浮かべていた。
「………ねぇ、やっぱり、僕は諦めたわけじゃないからね」
「………何が? あー………キスするって話か?」
 できれば諦めてほしい。だがよくよく考えてみれば相手はまだまだ子どもだ。頬にキスをするくらいで盛大に照れてみせる子どもなのである。自分からするっていったってたかがしれているだろう。ディーノは返答に迷った。唇の端に、ちゅっとするくらいならまぁ、仲のいい親子ならやっているかもしれない。よくわからない。あとで部下たちにでも………いやだめだ、家庭環境に恵まれない、ローティーンの頃からぐれまくってたような連中ばかりである。参考にならない。ツナに………そうツナに雲雀の方からキスさせるならどこら辺までOKか、風紀上許されるものか聞いてみよう。あそこの家は父親がほぼ不在にもかかわらず、母子は仲睦まじい。きっと、毎日キスしたりハグしたりしているに違いないではないか。
 つまり、本音をいえばディーノだってキスをしたいのだ。ディーノ………じゃないディープキスをってことじゃなくて、挨拶としてのそれを。どうにも信じがたいことだが、雲雀は二つの違いを明確には理解していないようで、だがだからといって、全面的に禁止、唇以外の、頬とか額とか鼻先とか目元とか、そんな家族ならあたりまえの場所にも駄目ですなんてことになったらきっと辛い。寂しくて死んでしまうかもしれない。
「それはするっていっただろ」
「え? いやうん、聞いたけど」
 同意はしてない気が。
「そうじゃなくてさっきの話」
「………」
「ぜったい、諦めないから」
「まぁ、その話は恭弥が大人になったらな」
「ディーノ!」
「そんな急いで決めることじゃねぇよ。約束したろ、オレは恭弥より長生きする予定だからさ、そうしないと息子不孝になっちまうんだろ、おまえそういったじゃないか」
 いつだったか、朝食を食べながらそんな話をした。
 正直なところ、雲雀にキャバッローネに縛られてほしくないという思いは、なんの変わりもない。だが、彼が自分から望んでくれているのに否定するのもまた、ディーノの身勝手な強制であるのかもしれない。選択肢のない人生なんて、彼には知らないで欲しいだけなのだといっても。彼と初めて会ったとき、それこそ彼の家庭環境も知らなくてひきとるなんて考えてもいなかったとき、まず考えたのは、マフィアにすることでもイタリアに連れていくことでもなくて、彼の才能に見合った広い広い世界を自分がみせてやることだった。いや、今だってそのつもりだ。そのあとで、彼が選んだ生き方を精一杯応援してやれればそれでいい。
「おまえ、子どもが大事だったら根性みせて死ぬなっていったろ………あれで、オレはすっげぇ…」
 すくわれた。楽になった。嬉しかった。どれも正しく、そして充分じゃない。この優しい子は、自分の何気ない言葉が、父親を殺した罪深い男の心をどれほど慰めたかは知るまい。知らなくていい、彼は、ディーノがあの頃身勝手にも感じていた孤独や不安、どうしようもない心許なさを体験することはないのだから。ディーノが彼を置いて死ぬことなど、決してないのだから。
「………ディーノ?」
「すっげぇ…………腹減った! 恭弥は? 腹減ってねぇ? さっさとどっかいこうぜ」
「なにいって」
「すき焼きっていってたよな! あれか、専門店とかなのか?」
「たぶんそうじゃないの…」
 つんとそっぽを向く子どもを思いきり抱きしめる。だって想像するだけで寂しくなってしまったのだから仕方がない。
「そっか、ちょっと待ってろ今調べるな」
 多分遊園地の外にでもいるのだろう部下たちに、うまい店を調べさせよう。左手で華奢な背中を撫でつつ右手で携帯を取り出すべく上着のポケットを探ろうとしたところで、自分の背中を掻き抱いてくる腕があった。
「え、や、ちょちょちょ恭弥!」
「なに」
「な、なにって…」
 なんだろう。こちらから抱きしめておいて、向こうが腕を回してきたからといって驚くなんておかしな話だ。でもなんだかぞくぞく寒気がするし、動悸もする。今日の自分はおかしい。
「外! 人目があるし!!」
「………ないよ」
 本当だ。一応は遊園地の敷地内の筈であるのに、さっぱり人影がない。電飾は明るいけれども、うら若き女性には迂闊に歩いていただきたくないもの寂しさである。経営は大丈夫なのだろうか。
「覚悟しなよ。一番すっごい肉、いっぱい食べてやるんだから」
「お、おお。頼もしいなー」
 慌てて身体を離すと、自分のような身体の不調はないらしい我が子が、まだまだムカついております、という顔で宣言して、ディーノは安堵した。人種の違いもあるが、同じ年頃の自分と比べても雲雀は随分痩せていて、常々もっと食べさせたいと思っていたのだ。
「なにそれ」
「ん? いっぱい食おうぜ。オレも鍋とか初めてだからなー、すげぇ楽しみ!」
「なにそれ」
「ん?」
 二回目のなにそれはいつもより大分強いアクセントで発音されて、ディーノは思わず首を傾げた。何か変なことをいっただろうか。
 雲雀との修行に明け暮れていた頃も、その後も、和食を好む子と様々な店で食事をする機会はあったが、鍋料理を提供する店を利用したことはなかったように思う。一方仕事関係の会食に参加する機会は、遺憾ながら日本でも逃れられるものではないが、広々とした座敷で適度に距離を置きつつ懐石を賞味したり、同席者よりはザ、ジャパニーズ職人が振るう美技に酔うのに忙しいカウンターで食べる寿司や天ぷらといった物は何度か食したが、取引相手の方々と一つ鍋をつつく、ということはいまだかつてなかった。
「あなた、鍋食べたことないの?」
「ねぇよ? なんだよ恭弥、そんな食いたかったのか?」
 そんなに驚くようなことだろうか。たとえばイタリアではピッツァだって、いくらおいしくても、お偉いさんとの会食のメニューには加えられない。それに、同じ鍋を共有するというのは、外国人の自分からしてもすごく親しげなマナーに思える。そりゃまっとうな………一応そういうことになっているビジネスマンからしたら、マフィアと食べるのは願い下げかも。
「………」
「んん?」
「買いに行く…!」
 がし、とディーノの腕を掴んだ子はとんでもなく目をきらきらさせていた。いやなんで。
「土鍋………まず土鍋が必要だよね。大きめな方がいいと思う。あなたよく食べるし。野菜は最初は嵩があるし。あとコンロと………」
「きょうや?」
 思わず問いかける。泊りがけで修行の旅に出たあの頃だって、ここまで嬉々として先の予定を語ったりはしなかった。
「やっぱり寒くなったら鍋だよね! 色々種類があるって聞いたことある!! あたたまるし、それに二人で食べるとかそれってすっごく家族っぽい………………」
「…恭弥」
「あ」
 気まずそうに視線をそらすと、雲雀は大きく首を振った。
「べ、別に、その、他の家を真似するってわけじゃなくて、うん、家それぞれだものね、あなたと僕が好きなもの食べればいいんだもの、でもちょっとなんとなくその…」
「いや、いいんだ食おうぜ、楽しそうじゃねぇか」
「でも」
「何でもチャレンジだろ。オレらはまだ家族になって日がないんだし、いろんなこと試してみて、そんで定番のメニューを決めていけばいいじゃねぇか。ごめんな、オレもよくわかってなくて、なんか鍋ってジャッポーネのレスラーのメニューだとばかり…」
「やだなにそれ」
 思わずといった風に雲雀が噴き出して、ディーノも笑顔になる。不勉強もいいところで、鍋料理が同席者の親しみを深めるメニューなのだろうとは考えていても、それはスポーツマンの合宿メニュー的なそれなのだと理解していて、家庭料理だとは考えていなかった。そりゃ交渉相手とのメニューとして選ばれない筈である。
「なんかすっげーむくむく太りそう…みたいな」
「ばか」
「ばかじゃねぇって、太ったら大変だろ」
「もう。家庭料理だもの。食べてすぐ寝るから太るんであって、栄養バランスはいいはずだよ。野菜が多いし」
 種類も多いんだよと雲雀は楽しげに例をあげてみせて、ディーノは思わず頬を緩めた………筈だった。だが実際はその笑顔が強張っていたことは、自分が一番わかっていた。雲雀が家族らしさ云々に自分以上に拘っていることは、勿論知っている。だからこそ、彼の期待に充分に答えてやりたかった。十年後、二十年後、懐かしくも幸せな思い出として振り返ることができるように。
「えー…」
「ていうかあなたもうちょっと太りなよ」
「一言一句おまえに返すぜ………」
 なんとか微笑んでみせる。わけがわからない。
 この子が望んでいる、必要としているものを自分が与えることができるということは、本当に幸せなことだ。そして彼がよりベターな…つまりより家族らしいふるまいを望むのもあたりまえのことである。それなのにどうしてこんな、まるで寂しいみたいな。
「………どうしたの、ディーノ?」
「いや、なんでもねぇ。まあ、今日は鍋買うだけにして、食べるのは店に行こうぜ。すっかり遅くなっちまったし、腹減った」
「そ………そうだね。いや別に僕はそんな拘ってるわけじゃ」
「ん? 鍋は買おうぜ。ただ、いつもならそろそろ晩飯の時間だしな、すき焼き、すげー楽しみだし」
 どうかしてる。本当に、今日の自分はおかしい。
「あ、うん。そうだね、もう遅い」
「あれだろ、上を向いて食べるのがマナーなんだろ」
「なにが?」
「ん?」
 あれ本当におかしかったのか? ディーノは思わず目を瞬かせて、自分の言動を思い返した。
「だからほら、上を向いて食べようってやつだろ、なんかできいたことがあるぜ」
「どこでそんな………違うよ。涙がこぼれないように上を向くんだ」
「へー…?」
 そりゃまた切ない食べ方である。もともとは冠婚葬祭のメニューであるとか、そんな感じだろうか。まだまだジャッポーネの風習は驚きばかりだ。
「ほら」
「ん?」
「早くいこうよ。おなかすいたんでしょ?」
 はい、と差し出されたその手をとる。いつものことなのに、なんでだか今日は照れくさい。ディーノは大きく息を吐いて、それから、つんと鼻を上に向けてずんずんと歩こうとしている人のペースに合わせようと、足を速めた。その人の目元が赤く染まっていることには気づかないふりをする。思えば自分もさっきは盛大に泣いてしまって、確かめなくとも瞼が熱をもっているのがわかる。ああ、そういうことか。
「ほら急げー。店が閉まっちまうぞ」
「ちょ、なにいきなり」
手を引いて走り出す。ジャッポーネの歌はこの国で生まれ育った人と同じく、酷く意地っ張りだ。泣きたいなら泣いてしまえばいいのに。でもそんな意地や矜持は、残念ながらイタリアンマフィアだって潤沢に持ち合わせているもので、ディーノは夜の澄んだ空気を思いきり吸いこんで、そして笑った。これからはもう我が子を、悲しませないように。涙がこぼれないように。














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