「きょうや………」
 思わず呼びかけて、だがディーノは言葉を失った。だっていったいなんていってやることができるだろう。無理だ、とかごめんな、とかマフィアのボスになったっていいことばかりじゃないぜ、とか? どれもあまりに心ない台詞だ。彼を傷つけたくない。考えて、そして気づいた。自分はもう、彼を傷つけているのだ。不安にさせている。だからこそこんなことをいいだしたのだろう。
 思えば日本に住むようになったばかりの頃、雲雀とそんな話をした記憶がある。オレは長生きするから気にしないで大丈夫だとかそんなことをいった。つまりはディーノはまだ若く、しかも結婚を考えるような特定の相手がいるわけでもないので、いくら自分の立場がわかっていても、そんな先のことなぞさっぱりまったく現実的には考えられなかったのだ。だけども、彼はずっと、あの頃から不安を抱えていたのだろう。あまりの不甲斐なさに目眩がしそうだ。
「ごめんな、恭弥オレが…」
「いいよ」
「え?」
「気にしないでいい。わかってたよ、最初から」
「いや! 違う、そうじゃなくて」
 そういう意味での謝罪ではない。だが何が違うというのだろうか?
 彼が自分の、キャバッローネの地位とか資産とか権力とか………そういったものに興味があるだけだったなら、怒ることも諫めることもできるのに。だが彼がそんなものに目が眩むような人じゃないことはディーノが一番わかっていた。彼はただ、ずっとこんな不甲斐ない父親の息子でいたいと、そう望んでくれているだけなのだ。
「何が違うの。僕はあなたの本当の子どもじゃないもの」
「………恭弥!!」
 だからこそ、こんな台詞はいわせたくなかった。
「な! に………」
「恭弥。…きょうや」
 思わず抱きしめる。肩口に顔を埋めるとよく知った匂いがした。雲雀の匂い。同じバスソープやシャンプーを使う人の、だが自分とは違う匂いだ。少し安堵して、だからこそディーノは更に力を込めてその細い身体を抱きしめた。おかしい。まるで、縋りついているのは自分の方みたいだ。
 現実問題として、今の状態で雲雀がキャバッローネを継ぐのは無理だろう。部下たちだって、いくらディーノが家族をもったことを祝福してくれてはいても、このままディーノが結婚もせず血脈も繋げないなどという可能性は想像してもいないに違いない。いや違う。部下たちがどう思おうと関係ない。そうじゃない。結局、つまりはディーノが雲雀には後を継いでもらいたくないのだ。なんて酷い話だろう。
「恭弥………ごめんなオレは………あれ?」
 がたん、と音がして気づけば観覧車の動きが止まっている。恐る恐る肩口から顔をあげると、ドアを開けたまま固まっている係員がいた。思わず呆然としていると我が子が身を捩ったので、慌てて解放してやる。
「え………その、もう終わり?」
「もう一回ですね、かしこまりましたー!!」
 いやそんなこといっていない。だが突っ込むより前に、自棄になったような声音で係員は「空の旅をお楽しみくださーい」と最初に乗り込んだ時も聞いた挨拶を叫んで、籠は上にあがっていく。いやちょっと待て、このまままた一周二人きり? ディーノは思わずあたふたした。雲雀はものすごく下手糞になにもない風を装って、天空からウォーリーでも探そうとしているみたいに必死な顔で景色を眺めている。
「えーと、その」
「………」
 あまりに長く続いた沈黙。それを振り払うように、強いて明るい声をだす。返答はない。当然だ。
「いやー見られちまったなー。息子にしがみついてる駄目な親父だって思われたぜ、きっと」
「………なにそれ」
 振り向きもせずに雲雀は返事を零した。なにそれ、ああなにそれだ。いくら家族らしく、二人での生活にも慣れてきたとはいえ、自分たちは人種も違う。歳も親と子だというには大分近い。ぱっと見で二人の間柄を親子だとわかってくれる人間はそう多くはないだろう。
「………あ」
 じゃあなんだと思われるっていうんだ? ふと思いついた疑問に対する答えを見つける前に、まるで地響きのような音が聞こえて、夜空が明るく輝いた。雲雀が驚いたような声をあげて、数秒遅れて観覧車の動きが止まる。
「並盛の夜空を彩る、美しい光のショウをお楽しみください」
 車体に内蔵されているらしいスピーカーからアナウンスが聞こえる。気づけばまた輪のてっぺんに自分たちはいるらしく、特等席だなといいかけて思わず笑った。特等席も何も、多分この観覧車には自分たちしか乗っていない。たいそうな空きっぷりの遊園地なのだ。
「きれい………」
 呆けたように見蕩れている、その横顔の方が余程綺麗だとディーノは思った。薄く唇を開け目を細めて、多分いつもきりりとした表情を浮かべている厳しい風紀委員長からしたら、写真でも撮られたら一言物申しそうな顔。だが、苦労の多い子ども時代を過ごしてきて、理不尽なこともいっぱいあっただろうに、自分の生まれ育った土地を心の底から愛している人の顔だ。自分とは全然違う。恵まれた環境で育てられて、それでも、取り返しのつかない失敗を犯すまで、覚悟を決めることのできなかった自分とは。
「きれいだな…」
「うん!」
 思わず零すと、雲雀はまるで先程までのごたごたなぞすっかり頭から飛んでしまったらしく、きらきらと瞳を輝かせたまま振り返って大きく頷いてみせた。きれいなものがきれいなんじゃない、好きなものがきれいなのだ。少なくともイタリアのことわざではそういう。だからきっと、この小都市のありふれた夜景が雲雀にはとんでもなく美しく見えているのだろう。あの小さなイタリアの街が、ディーノには何処よりも美しく見えるのと同じで。
「まったく、どこで打ち上げているんだろう。並盛でイベントをやる時は委員会にも通達が来る手筈になっているのに………でもうん、そうだね、悪くないよ」
 照れくさそうに怒ったふりをして見せる、この小さなじゃじゃ馬、厳しい委員長が、ディーノには世界中で一番かわいくてきれいに見えるのと同じで。そしてこのきれいな人はどうやら事の次第をさっぱりわかっていない。遊園地についたとき、垂れ幕の作成にはディーノのファミリーと風紀委員が関わっているらしいと、そう二人で結論づけたというのに。そういえば昼食をとったときも、明らかに雲雀のお気に入りの店のレシピで作られたハンバーグを食べたのに、どうも理解していないような反応を示していた。並盛のために尽力しながら、当然受けるべき、いや実際受けている好意や敬意を全く自覚していない。教えてやってもいいけれど、委員の連中もそんなことは望んではいるまい。休日なのに明かりがついていた並盛中学の謎は、風紀委員長が解くべきである。
「あ、ハート型。すげーな、日本の花火の技術は…」
 夜空に大きなハートのフォルムが続けざまに三つ描かれて、ディーノは思わず感嘆の声をあげた。大晦日や祭りなどで、自分のシマでも花火をつかったイベントが行われることは珍しくないけれども、このようにかわいらしい、素人にも難しい技術を駆使しているとわかる花火を観るのは初めてである。
「まぁね」
「はは、そうか…」
 得意気な返答に苦笑する。まるで自分が打ち上げたとでもいいたげだ。だがそんな態度にも覚えがあった。この夏。雲雀はイタリアに来て、ディーノは得意気に街を案内して回った。ジェラードがうまい店、ピッツァがうまい店。採算なんて度外視どころかまったく理解していなくて度重なる啓蒙の結果なにそれおいしいのとやっと興味を持ってくれるようになってくれた靴工房………ついつい訪れた記念に自分と雲雀の物を誂えた。あの時の自分はきっと同じぐらい得意気な顔をしていたことだろう。
「恭弥は並盛が好きだろ」
「………………………うん?」
「いい街だ。すっげーいい街。オレも大好きだ。でも、恭弥みたいに損得抜きでこの街を守ろうって思える奴はそうそういるもんじゃねぇ」
「………」
「生まれ育って、いいところも悪いところも知って、だからこそ大事に感じる。この街で今まで暮らして、楽しいことばかりじゃなかったとしても、それは問題じゃないんだ」
「なんで…わかるの」
 わかるさ。わかるんだ。
 最後に雲雀を連れていった、高台の、ディーノだけの秘密の場所を思い出した。シマの全景と、その向こうに広がる大きな海が見える場所。目を閉じただけで、その光景は全て頭に浮かべることができた。ディーノの後悔も愛するものも全部そこに詰まっている。そこに来るたびにどんなに悩んでいても、精一杯頑張ろうと、そう素直に思えた。無力な自分にできることなぞたかが知れていて、それでも全力を尽くそうと。もっと子どもの頃から、あんなことをしてしまう前からそう覚悟を決めることができればよかったのだけれど。
「そんな場所にはな、一生で何度も出会えるものじゃねぇ。恭弥は並盛のために力を尽くすといい」
「なにそれ」
「あ、別に並盛のボスになれって意味じゃないぜ。なってもいいけどな。恭弥はまだ若いし、可能性はいくらだってある。教師だっていいし、宇宙飛行士とかF1レーサーとかカーエンジニアとか………」
 思わず苦笑する。それは子どもの頃の自分がなりたかったものだ。
「なんにでもなれる。恭弥は動物が好きだから獣医とか動物園の経営とかいいかもな。すっかり料理上手になったからシェフとかも………まあ客商売は向いてなさそうだけど」
「………」
「ってボンゴレに入るようにしたオレがいうなよって話だけどさ。あの頃はボンゴレも危険な状況で」
 そしてこの少年がここまでかけがえのない存在になるなんて想像もしなかった。言い訳にもなりはしないけれど。
「正直恭弥はすげー強いし、ボンゴレでもうまくやっていけると思う。雲だから、くだらない負担をかけられることも少ないだろうし。でも、もし恭弥がいやだっていうなら、抜けられるようにオレが話をつける」
「………………ディーノ、僕は」
 この子どもにはキャバッローネなんかに縛られてほしくない。頭の中に浮かんだ、もう少しで口に出そうになった言葉に思わず身震いした。何よりも大事なファミリー。飛翔する黒馬。「なんか」なんて考えたことはあの日から一度もない。でもこの小鳥の翼をもぐならどうだろう。この子を守れない、飛べない馬はただの馬だ。
「おまえはなんにだってなれる。なれる子だよ。オレはいつだっておまえの味方だ。何があったっておまえはオレの大事な息子………」
 はたと止まる。じわじわと後悔が押し寄せてきて、ディーノは驚愕した。自分は何を今いったろう? なんて酷い言葉をこの子どもに浴びせたろう。
「恭弥、恭弥ごめんオレは………」
 あまりの自分の醜さに、まともに我が子の顔を見ることもできなかった。なんて汚いエゴを自分は彼に押しつけようとしていただろう。とても許されていいことじゃない。がたがたとまるで凍えたように身体が震えた。それがこの優しい子の目に憐みを乞うように見えやしないかと、ディーノは膝を手で打ちすえて、なんとかそのみっともない様を止めようとした。震える膝が視界に入るせいで、細かい模様の入った鉄の床板まで滲んで見える。
「ごめん、ごめんな………」
「ディーノ」
「おまえはオレじゃねぇのに。そんなことは最初からわかっていた筈なのに、オレは……」
「今のは」
 澄んだ声が観覧車の籠のなかに落ちる。逃げ出したような気分で、ディーノはひたすら滲んだ自分の膝を見つめた。
「あなたがあなたのお父さんにいって欲しかったことなんだね?」
 知られたくなかった。軽蔑されたってしかたがない。そう思っていたのにディーノは思わず顔をあげた。目の前の我が子はただ穏やかな表情を浮かべていた。
「なんで…わかるんだ?」
「わかるよ。わかるんだ」
「………きょうや」
 だったらなんで怒りださない? トンファーで殴られたって、いっそここから突き落とされたってディーノは文句をいうまい。いや、それくらいで許してもらえることだろうか。子どもの頃。へなちょこだったディーノはマフィアが怖くて戦うことが怖くて、そして同じくらい父親を失望させることが怖かった。修行は無茶ばかりでさっぱり自分が強くなったような実感はなく、いずれおまえには無理だなとそう宣告されるのかもと思っていた。マフィアにはなりたくないと思っていたのに、父と顔をあわせるたび、いつ引導を渡されるのかと怯えていた。もうすっかりマフィアのボスとしての仕事にも慣れて、あの頃のことなんて飲み込めたと思っていたのに。ああそうだ、これはずっと子どものディーノがいって欲しかったことだ。
「あなたはいつも、自分が一番いいと思うもの、欲しいものを僕にくれるもの。服だって、家具だって。きれいに焼けた方のトーストとか、クレープのてっぺんの飾りとか。お昼だってあなた本当は、ピザの方が気になってたんだろ?」
 ばれていたのか。部下たちが手を尽くしているのを察して、これならピッツァも食べられるものが提供されるだろうと思いもした。実際、入った他の店まで運んでもらったそれはなかなかに美味であったのだ。だが店を決める時点では、いつだって食べられるピッツァなんかより、ハンバーガーを嬉しそうに雲雀が頬張ることの方が魅力的に思えたのだから仕方がない。
「そんなの、あたりまえだろ?」
 パンを欲しがる自分の子どもに、石をやる奴なんていない。魚を欲しがっているのに蛇を与える奴もいない。生涯独身を貫いたイエスですら知っている事実である。どんな悪人でも我が子に良いものを与えることを知っている。二千年以上昔の世界でもわかりきっていたことだ。
「あたりまえじゃないよ、ディーノ」
「恭弥」
「そんなのあたりまえじゃない」
 せめて悲しそうにでもいってくれたなら慰めることもできるのに。雲雀はまるで下手な冗談でも聞いたみたいに微笑んで、ディーノの頬を指の腹でぐいぐいと擦った。地味に痛い。でもそれだったらいっそ、殴ってでもくれた方がすっきりするのになんて、勝手な言い草だろうか。ディーノはどうすればいいのかわからない。
「ねぇ、プレゼントに何をあげるか迷ったら、自分が欲しいものを選べばいいってよくいうじゃない」
「え?」
 また唐突に話が変わる。雲雀はまだ笑っていて、問いかける隙を与えない。
「僕、そんなの嘘だと思ってたんだ。欲しいものなんてみんな違うもの」
「………」
「実際僕は納得してないし。諦める気もないし、ムカついてもいるけど」
「きょうや」
「本当だった。あなたのくれた言葉が、とても嬉しい」
「なんで、恭弥なんで、なんで………」
 なんでこんなにも彼は優しいのだろう? ディーノにはとても理解できない。自分はただ、子どもの頃欲しかったものを彼に押しつけようとじたばたしていただけだ。それがどれほど身勝手なことか、考えもせずに。
「ねぇ、あなただってなんにでもなれるんだよ?」
「なにいって」
「なんにでもなれる、その気になれば。僕だって…」
「………恭弥」
 窘めるように頭を撫でる。生半可な気持ちでいってくれたわけではないのはわかっていた。出会ったばかりの頃の、マフィアについて何も知らない子どもがいったなら笑い飛ばしたろう。だが彼はもう、イタリアにも来て、自分の部下たちのこともシマのことも知っている。ディーノの背負っている責任を知っていて、それでもいってくれているのだ。だが、最後まで聞くわけにはいかなかった。ディーノはけしてその気にはならない。自分の罪も仕事も全部理解して受け入れている。いやだいやだと駄々をこねていた子どもの頃とはもう違うのだ。
「なんで、いわせてよ。僕だって」
「うん。わかってる。でもいいんだ」
「なんで」
「うん」
「なんで………」
「うん、ごめんな。ああ恭弥………」
 信じられない思いで、ディーノは呟いた。なんでと聞きたいのは自分の方だ。
「オレのために泣いてくれるんだな」
 ほろほろと零れる涙を、ディーノは慌ててシャツの袖で拭った。いつもだって磨きあげられた黒曜石みたいにきれいな瞳が、今はもっと、まるで夜空の花火の輝きを全部詰め込んだみたいにきらきら輝いている。
「違う。さっきから、泣いてるのはあなただ」
「え?」
 いわれてきづいた。いつの間にやら自分の頬は、温かい液体で濡れている。慌てて自分も拭おうとして、だがその手は雲雀に掴まれた。ぐいぐいとまた指で擦られて、ディーノは余計に泣きそうになる。さっきから自分が気づかなかっただけで、雲雀はずっと泣きやませようとしてくれていたのだろうか。
「きょうや」
「なんで。ねぇ、僕だってあなたの」
「わかってる。いいんだ、きょうや、いいんだ」
 いわなくたってわかっている。思えばなんて馬鹿なことを、雲雀にいおうとしたろう。自分は彼の味方だ。何があろうと信頼できる。そんなことは家族になろうと決めた日から、わかっていたことだった。
「ディーノ、だって」
「きょうや」
 これ以上そのかわいらしい唇で、大の男を情けなく泣かせるような、美しい言葉を紡がないで欲しい。ディーノは思わずその唇を自分のそれで塞いだ。














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