甘く柔らかい匂いが鼻腔をくすぐって、ディーノは思わず頬を緩めた。
 卵と牛乳とバターが焦げる匂い。そんなものがまるで幸せそのものの匂いのように感じられるようになったのは最近のことである。とりあえず今朝も、まともな朝食にありつけそうだ。
「皿、皿っと………」
 深めのガラス皿と、大きな白磁の丸皿を並べる。ガラス皿の方にサラダを盛りつけていると、器用な細い腕がディーノの右腕と左腕の隙間をすり抜けて、ひょいひょいと白皿に焼けたアスパラとソーセージを載せていった。
「きょーうや。あぶねーから気をつけろよ」
「あなたにいわれたくない」
 ムスっと口を曲げてみせる息子は黒のエプロンを身にまとっていて、とんでもないかわいさである。たぶん清楚というのはこういうことをいうのだろう。
「そういうなよ。つい心配しちまうんだって」
「必要ない。僕はあなたの方が心配だよ」
「そ、そーか…」
 一瞬感動してしまいそうになったが、つまりはディーノの方が料理における失敗が多いとそういっているのだ。実際その通りで、一緒に日本で暮らし始めてすぐの頃は、鍋を焦がしたり電子レンジを壊したり、思いつく限りの失敗はあらかたやってしまった。父の沽券なるものがあるとするなら、かなりの打撃を被ったであろうことは想像に難くない。だが最近は慣れてきたのか大きな失敗をすることもなくなってきたし、味の方も少しずつ向上している実感がある。
「あ、焼けたみてーだな」
「気をつけてよ」
 ぴろぴろぴろとかわいらしい電子音がしたので、ディーノは引き出しからミトンを取り出した。心配性の息子の忠告には苦笑する。ああほんとうに、不器用で傍からはわかりづらいけれど、誰よりも優しい子なのだ。
「わかってるって………うん、うまそうだな」
 オーブンのドアを開けると、黄金色をした分厚いフレンチトーストが二つ、フライパンの上で得意げな顔をしていた。
 いや得意げな顔をしてしまっているのはディーノの方かもしれない。フレンチトーストはこの家にきて初めて挑戦したメニューであり、何度失敗したかしれない。日本のフライパンは熱伝導率がとんでもなく高いのだ。幼い子供の胃に負担をかけないように、中までしっかり火を通そうとすると、もれなく炭化したトースト的なかわいそうな何かができあがる。
 だがそこは故郷の家でずっと働いてもらっているシェフに感謝である。どうしてもうまくいかないのだと、失敗品の画像とともにメールでアドヴァイスを乞うたところ、適当に焼き目をつけたらオーブンに放り込んじまえという、非常にざっくりした指示をもらったのだ。だがこれが意外に有効で、追伸に書かれた、無理そうだったら明日にでも来日するぞという厚意には未だに甘えずにすんでいる。
「うん、おいしそうだね」
「あ、っとあぶねーって恭弥」
「焦げてない」
 我慢の足りない我が息子がオーブンをのぞき込もうとしていて、ちょっとあわてる。かわいい手が火傷でもしたらいけない。
「ちょっと待てって」
「早くしてよ」
 まったくしかたのない子だ。だがせかしてくる様子もどこか楽しげで、ディーノも嬉しくてならない。食べ盛りの息子は、朝食を失敗しなかったというだけで、妙に一日機嫌がよかったりもするのである。
「まあ今日はな」
「そうだよ、急ぎなよ」
 だが今日だけはそれだけが理由じゃないだろう。まったくディーノだって、自分が踊りだしていないのが不思議なほどだ。
 フライパンを取り出し、トーストを皿に移す。なんとかそのミッションをやり終えて横を見ると、雲雀は味噌汁をよそっていた。
「うまそうだなー。あ、なめこと豆腐か。オレそれ好きなんだ」
「知ってる」
 なんでもないふうに答えるのだから始末に負えない。ディーノはどうにもうずうずして、だが抱きつきたいのを何とかこらえた。出発の時刻を決めているわけではないが、早めに出るに越したことはないのだ。それに朝食が冷めてしまったらいけない。
「あなたお味噌汁けっこう好きだよね」
「ああすっかりはまっちまった。毎日でもいいくらいだぜ」
「それはそうだよ」
 はい、とまじめな顔でお椀を渡してくる息子はさすがに日本人である。
 ディーノは、この家で暮らし始めるまで味噌汁なるものをほとんど飲んだことがなかった。仕事関係の会食で懐石料理などを食する機会はそれなりにあったけれど、そういう店で提供される椀物は大体に置いて味噌味ではない。弟弟子の家や、部下たちと興味半分で入った定食屋などで確か数回食したはずだが、とんでもなく茶色い見た目に反して割合飲みやすいなとか、それくらいの感想しか持った記憶はなかった。
 だが、家族になったばかりの日本人の息子は、一日一回は味噌汁を飲まないとどうにも落ち着かないらしい。今日だって、フレンチトーストと味噌汁という組み合わせはさすがにどうだろうとディーノからしたら思わなくもないのだけれども、当然という顔で雲雀は椀によそっている。二人で料理をするようになってから、朝食の味噌汁を作るのは決まって雲雀の役目で、というのもイタリア人のディーノにはとても細かい味の濃度なりなんなりが調節できなかったからなのだけれども、毎日飲む内に実はすっかりその魅力にはまってしまっていた。以前味わったときは特に何を思うでもなかったのだから、これはやはり愛情というスパイスのせいだろうとディーノは思っている。仕事の都合で帰国している間なぞ、あの味が恋しくて何か落ち着かないほどなのだ。
「あ、そういやツナがさー」
 いただきますと手を合わせたあと、ふと思い出した話を開陳しようとすると、食べ盛りの子どもはぽかんと口を開けた。
「なにあなたまだ食べるつもり?」
「へ? いや足りないからシーチキンでも開けようぜ、って話じゃなくてな? あ、恭弥蜂蜜かけるか?」
「うん」
 食べたかったのかもしれない。ディーノはもともとそこまで朝食をしっかり食べる方ではなかったが、雲雀は基本的に朝からきちんと栄養をとりたがる。せめてもと、小さく頷いた雲雀の皿に、ちょっとメタボ気味な熊の腹を圧迫してたっぷり蜂蜜を絞り出してやった。
「この前会ったときな。恭弥が作った味噌汁を毎日飲みたいのに、イタリアにいる間は無理だからすっげー寂しいって話をしたらさー」
「ばか」
「ばかじゃねーって。ばかいう子がばかなんだぞ」
「っていう子もだよ」
「子じゃねーし。うん、そんでな。そしたらなんか変な顔してよ」
「そりゃそうだよ、イタリア人が」
「あ、おまえもそういうこというんだな。ツナもイタリア人でもそういう台詞いうんですねとかびっくりしててさ」
 ナイフで大きく切り分けたトーストを頬張る。うん、なかなかにおいしい。昨日の夕食の準備のついでにボウルに放り込んでおいたパンはたっぷりと卵液を吸い込んで、まるでプディングのようにしっとりとしている。そして意外にも味噌汁があう。故郷の料理はもちろん懐かしく、愛着もあるが、新しい味覚と出会うこともまた喜びである。日毎に頼もしく成長している弟弟子も、いずれイタリアに居を構えるようになれば理解できるに違いない。
「何人かなんて関係ねーだろ? 恭弥が作ってくれたんだからおいしいに決まってる」
「そりゃそうだよ」
 家庭料理って奴だからね、と賢い息子は胸を張ってみせて、なるほどとディーノは首肯した。家族の体調や好みを考慮して作るのだからおいしく感じられて当然だ。芳しい味噌の香り。手の上で切ろうとするのを危険だと必死で止めてからは豆腐はちぎって鍋に投入されることになり、崩れた断面から味が染みて非常に美味である。多分家ごとにこんな、味噌汁の味付けだとか、目玉焼きには何をかけるかなんて問題を話し合い同意にこぎつけるための時間を経ている筈で、我が家でもそれを経験しているからこそ、このかわいらしくも才能あふれるシェフが満足気な笑みを浮かべているのだと思えば、何もかもが誇らしく感じられる。
「ねぇ、あなた蜂蜜はいいの」
「ん? ………ああそうだな、かけてくれるか」
「うん」
 甘みは十分にあったけれども、蜂蜜の香りはまた格別なものだ。雲雀はきまじめに瓶を逆さにして、金色の液体をそっと垂らした。熊のボトルはほとんど空になっていて、どことなく寂しげだ。
「帰りにスーパーで蜂蜜買って帰るか」
「そうだね」
 そういえば、今日の目的地にこの熊はいないのだった。いいのかよ、と聞きたい気もしたが、もちろんいいのだろう。並盛が何より好きな子である。だがこの熊も、いつだったか戯れにプレゼントした、遺憾ながらこの国にはあるのに我が祖国には存在しないかの有名な遊園地におけるリーダー鼠の頭部がついたシャープペンシルも、ずいぶん気に入って大事にしているようでもある。かわいいんだよなあ、とディーノは思った。もちろん鼠のことでも熊のことでもない。
 いうまでもなくチケットを入手してきたのは雲雀なのだから、たいそう人が多いに違いない某テーマパークよりも、並盛のそれの方がいいと思ったのだろう。ディーノに異論があるはずもない。子どもが楽しむことが一番の重要事である。それに、実をいえばディーノは物心がついてから遊園地なるもので遊んだことがなく、内心楽しみで仕方がない。子どもの頃は安全において不安があるとのことで遠出してどこそこに遊びに行く、などというイベントはほとんどなかったし、ボスになってからは、例えば祭りの度にシマにやってくる移動遊園地を訪れることもあったけれども、それはつまりは責任者との顔合わせだのが目的なのであって、まさか黒づくめの部下を何人も引き連れた男が、メリーゴーランドに乗ってはしゃぐわけにもいかない。
「楽しみだなー」
「そうだね」
「やっぱあれだな。メリーゴーランドには乗らないとな!」
「楽しいの、それ」
「そりゃ楽しいさ!」
 予想もしない質問にびっくりしながらも、ディーノはうなずいてみせた。楽しくないはずがない。毎年春先にやってくる一番規模の小さな、ゴーカートと乗り物が三つ四つ、という移動遊園地すら、必ずメリーゴーランドは設置していると聞いている。相当人気の遊具に違いない。
「じゃあ乗らないとね」
「そうだなー」
 ごちそうさま、とふたりで声をそろえて、それから皿を食洗機に投入する。ぱたぱたとクローゼットに向かった息子は、遅れて自分の分の衣装の在庫に首を突っ込んだ父親の袖を引いて、この前プレゼントしたばかりの黒のパーカーを羽織った姿を開陳してみせた。いつもいつも薄着過ぎると苦言を呈したのが効いたのか、それなりに暖かそうで、かつカジュアル。かわいい。予想以上にかわいい。見事な着こなしである。
「どう?」
「似合ってる」
「そう?」
「なんだよ、オレの見たてを疑うのか? よし、じゃあすっごくかわいいで賞、だ」
 自分がつけようかと思っていた、昔から持っている小さなメダイのペンダントを細っこい首にかけてやる。我ながらいい判断で、シンプルな服装を引き立ててくれるようだ。
「なにそれ」
「ん?」
「僕そんなの持ってないんだけど」
「え? ああそうか…わりぃ」
 まだまだ子どものように見えても、そろそろ衣服や髪形に拘りだす年頃である。一緒に暮らすようになってから、質素極まりない長持の中身に怖れをなして、機会を捉えては服や靴や何やらを買い与えてきたつもりだけれども、アクセサリーの類は殆ど購入してはいない。まだまだ興味がないように見えていたけれど、実は不満を感じていたのだろうか。
「あなたには何をあげればいいの?」
「ん?」
「かわいいで賞」
「え?」
 何をいっているのかわからない、と答えられればよかったのに。力いっぱい頬ずりしてやりたい程ぷんぷくりんに膨れた頬は滑らかで、ああトロフィーも押し付けたい程だ。だが「かわいい」要素など全くなく、むしろかっこいい、とか頼りになる、な要素での評価を狙っていた父親としては、我が審査員の採点には疑問を呈したいところだ。だが息子は明らかに不満気で、ディーノは渋々地味ではないかと思ってしばらく使っていない、シンプルなドッグタグのネックレスを取りだした。平たいし何となく、形も近いといえなくもないような気がする。
「おし。じゃあこれかけて、恭弥」
「しかたないね」
 えらそうな「審査」委員長の発言に頬を緩めながら、さりげなく腰をかがめた。表彰台の上に乗っているわけではないが、それなりに身長差がある。だがそれでもたりなかったのかもしれない。委員長はまるで縋りつくみたいにディーノの首に腕をからめるとかちゃかちゃと鎖の金具を鳴らし始めた。
「え、や、ちょっ! きょうや」
「大人しくしてて」
「おおおおおおう!」
 首筋に暖かい息がかかって、ぞくぞくする。ディーノは思わず動揺した。風邪でもひいたかもしれない。いやそんなわけがあるものか。何日も楽しみにしていたのに、今になって体調を崩したなんてありえない。でもなんでこんなに
「………………うん、できた」
「え?」
 永遠に続くかと思われたかちゃかちゃという音が聞こえなくなって、ディーノはぎゅっと瞑っていた瞼を開いた。見れば息子は満足気な笑みを浮かべている。
「似合うよ。かっこいい」
「そ、そうか?」
 単純な話だが褒められれば気分が浮上した。そうだ、これからはこのネックレスを積極的に使うようにしよう。服をあまり選ばないし、それに、そういえば昔から自分はこのブランドが好きだったのだ。なんでこのところ使わずにいたものだか、さっぱりまったく理解できない。
「恭弥もよく似合ってるぜ。じゃあそろそろ行こうか」
「そうだね」
 準備は万端。窓の向こうに視線をやれば、空は透き通って青い。絶好のおでかけ日和の日曜である。









inserted by FC2 system