「恭弥! 焦げてる! 焦げてるって!!」
 慌てた声がして、大きな手がレンジのスイッチを切り、フライパンを隣に移動させた。は、と我に返る。
「あー………ちょっと焦げちまったな」
 
フライ返しでフレンチトーストを持ち上げたディーノは恐る恐る裏を下から覗き込んだ。確かに少々狐色というには色が濃くなってしまったが、黒焦げというほどではない。食料の範囲内だ。
「食べられるよこれくらい」
「そうか? ………まあそうかな」
 さっぱり判ってない声でディーノが答える。今まで焦げたものも傷んだものも食べたことがないのかもしれない。そうであっても不思議ではない、雲雀が知る限り、ディーノはとんでもない財産家だ。いや、そんなことは問題ではないのだ。初めから知っていたし、それだけでなくもっと多くの部分で二人は噛みあわない。生まれ育った国も、文化も宗教も生活信条も年齢も。すべてが違う。引っ越す前に見て回った家具や家電の好みも殆どが咬みあわなかった。それなりに恰好がつく様子にまとめられたのはすべてこのいかにも内装からして金のかかっているマンションの設計士の手柄だ。
 いやそうじゃない。ほんとうはそうじゃない。趣味は合わなかったけれどもそれでも二人の意向が重なる部分を何とか見つけ出そうとしたし、そうでなければ相手の意見も聞いた。たとえば雲雀は広い風呂に拘りがあったし、対してディーノはシャワーで済ましても殆ど不都合を感じない人間だ。だがソファには意見があるようで、一方雲雀は応接室のものに似ていればあとは問題なかった。ベッドは日本で購入したので、ディーノがいうような馬鹿みたいに大きくて天蓋とやらが付いているものは入手できなかったけれど、その代わりにどうにも存在感を寝室で発揮している大きなアンティークのデスクボードを購入した。上に家族の写真を飾るのだそうだ。ほんとうに、そんなことを平気でいう人なのだ。
 家族の写真、そういった。
「どうした? 恭弥」
 赤ん坊は嘘をつかない。嘘をつく必要がない。それに昨日今日だけでも何度、我が父が転んだり怪我をするところを見たことだろう。いつものことだとばかり思っていたけれども、そういえば確かに部下のいるところではそんなおかしなことはしていない気がする。ファミリーの前では。
 じゃあ自分は何なのだろう。
「恭弥! やっぱり火傷したんだな!!」
「な!! 違うって」
 気がついた時にはとんでもない力で腕を掴まれて、流しの水を浴びせられていた。肘あたりから下を冷やすつもりのようだったけれど、水流が強いせいで跳ねて、胸のあたりもひどく濡れた。暴れても振りほどけない。
「大丈夫か? 痛い? 恭弥」
「違う………火傷じゃないよ。痛くない」
「本当に?」
 
真剣な顔がこちらを見ていた。同じように、雲雀にも彼に聞きたいことがあった。だが聞けなかった。声が出ない。
 それでも、聞かなくてもわかることはある。この優しい、信じられないくらい人のいい、それこそ血の繋がらない人種も違う多少関わりがあっただけの子供を引き取ろうと思いつくぐらいに人のいいマフィアのボスは、雲雀恭弥の怪我の具合を案じているのだ。並盛最強と謳われる雲雀恭弥の。今まで自分の怪我の具合など聞いてくる人間がいただろうか? 聞いてほしいと思ったことも、なかったけれども。
「あなた僕のこと鞭で叩いたりする癖にね?」
「おま!! それは問題が違うだろ! ………てかオレが傍にいたのによ………情けねぇ」
「違うよ。火傷なんてしてない、ほら」
 火脹れも何もない掌で、くしゃくしゃになった顔を撫でまわしてやる。せっかく綺麗な造作をしているのに、勿体ない。
「だっておまえ………」
「うん?」
「………泣きそうな顔していたじゃねぇか」
「見間違いだよ」
 本当に間違いなので平静な声が出せた。そんな顔を自分がする筈がない。ティッシュは使い切ってしまったので、ピンク色の例のあれで濡れた腕を拭った。既に卵液もだいぶ吸い込んでいたので、汚れた部分はよけて使ったものの、綺麗になった気がしない。まあ、どっちにしてもあとで二人ともシャワーを浴びるしかない状況だ。
「ぼーっとしちゃったんだよ。おなかがすきすぎて」
「う。そうかもう、こんな時間か。腹へるよな」
「とても」
 皿を差し出すとマフィアのボスは緊張した面持ちで頷いた。どうせ被害にあうなら皿の方を救おうという咄嗟の判断によるものなのだが、さっぱりわかっていないらしい。自分のへなちょこな性質を理解しているのか、困難なミッションに挑戦する前の兵士の顔だ。だがなんとか、黒焦げというには多少薄い色をしたパンがずるずると引力に敗北する形で、白い皿に滑り落ちた。途端に晴れやかな顔になる。本当に仕方のない人だ。
 何を心配することがあるだろう。たった一カ月なのだ。籍に入ってたった一カ月ほど。自分だってこのほとんど同じくらいの年に見える金髪のマフィアのボスを、父親のように考えているかというとそういうわけでもないのだ。なんとなくぼんやりと考えていた父親像とディーノはあまりにかけはなれている。すごいギブスをつけた修行を強要してこないし卓袱台をひっくり返して攻撃したりもしてこない。それは正直つまらないが、でもかわりにいつもキスして寝る前はくだらない話をしてくれるし、強請れば戦ってだってくれるし、こうやって朝食を作ろうなんて、考えてくれる。きっといずれ、もっとずっと親子らしくなれる筈だ。





 生まれて初めて食べたフレンチトーストは、なんていうか、いわせてもらうなら何の味もしなかった。多少の苦味はあるが、これはだいぶ香ばしく仕上がっているためと考えて問題ないだろう。しょっぱいおかずと食べるものなのかなと考えていると、向かいに座った父が沈痛に頭を振った。
「味がしねぇ………」
「………そうだね?」
「砂糖を入れ忘れたんだ。そうだった。………なんてことだ」
 一人で反省会を始めそうな男は無視して昨日の映画を思い返す。卵と牛乳を混ぜてパンを浸して………砂糖は入れていたろうか? 本当に? 正直まったく思いだせない。まだあどけない歳の子役は、髪の毛がだいぶ大人しめなことを除けばイタリアでこっそり彼の部下に見せてもらった写真の中の昔の父に似ていて、さっぱり詳しいレシピどころではなかったのだ。
「食べられるよ」
「きょうや、おまえは本当にいい子だな。いいんだぞもっと我儘いっても」
「そう?」
 予想だにしなかった評価である。
「だってこんな………あちょっと待ってろ」
 ぱたぱたと台所に駆け込んで戻ってきた父の手には、某クマのキャラクターをかたどった蜂蜜の瓶が握られていた。なんだこれかわいい。
「ちょうだい」
「なんだよ恭弥、せっかちだな? すぐ垂らして」
「違うちょうだいそれ」
 中身はどうでもいい。だが手を伸ばしてもディーノは笑うばかりで、我儘をいってもいいとかいってなかったかこの馬は。
「あ」
 とぷ、と傾かされた瓶は、たぱたぱたぱと中身を皿の上に注いだ。
「わりぃ」
「………」
 琥珀色の中身を失った瓶はだいぶかわいさの点でも目減りしている。信じられない。雲雀は黙ってディーノのトーストを箸でつまみあげると、蜂蜜の海の上に投下した。
「あ、恭弥そんなに腹減ってたのか? いいんだぞいくらでも食って」
「ばかうま」
 ひっくりかえして両面に蜂蜜をまとわせディーノの皿に返す。なんということか海の水位は殆ど変っていないように見える。ちょっとやそっとの対策でこの恐るべき事態を改善することは困難なのだ。温暖化問題と同じである。
 切り分けて口に入れると、なかなか悪くなかった。甘い。だが目の前のグルメは、まだなんだかコメントに困ったような顔をしている。
「なかなかいけるよ」
 甘いし。
「そう、か? 恭弥はいい子だな………あ」
「どしたの」
「殻入ってた」
「………」
 それはさすがに問題であろう。だがまあ、カルシウムだ。そうだ。
「次はちゃんと卵割らないとね」
「………おお! 頑張るぜ、オレに任せとけ!」
「任せとかないよ、いったでしょ僕もやる」
「ああそうだな!」
 にこにこと再びディーノがトーストに取り掛かったので、雲雀は満足気にうなずいた。一応まだ食べ物の範囲内であるので、簡単に無駄にするのは好ましくない。
「明日から早起きしないとね」
「そうだな。ちゃんと起きるんだぞ」
「あなただろ問題は」
「そんなことねーって。気持ちの問題だろこういうのは。そりゃちょっと川の字で寝ると安心するっていうかよく眠れちまうけど」
「川の字というかりっとうだけどね」
「りっとう?」
 こんなの、と雲雀はテーブルの上に指で書いた。それを眺めながら父は難しげな顔をしていて、多分日本語はそれなりに堪能だけれども、部首などまでは理解がないのだろう。
「恭弥はママンが欲しいのか?」
 と思っていたら聞いてくるのがこれだ。
「………なにそれ」
「いや川の字の方がいいのかと、思ってな。母親と父親とちゃんと揃った家庭の方が」
「馬鹿じゃないの」
「そうか、そか。………ならいいんだ、うん」
「なにあなたへなちょこの癖にあてがあるの」
「いやねぇよ! いやねーってのもどうだ! けどねーぜ?」
「ふうん?」
「前はちらほら話も来たけどなー、去年の秋頃からぴたっと。こう、ぴたっと」
「あなた何か馬鹿なことでも外でやらかしたんじゃないの」
 どう見ても何もしなくても引く手数多な感じの男である。公衆の面前で卵を割るとか、フライパンをひっくり返すとか、なんかそんな馬鹿なことをしたに違いない。去年の秋といえば、ちょうどこのマフィアのボスと出会って修行だとかいってあちこちを回っていた頃だ。山だとか川だとか、場所を変えるたびに楽しそうにはしゃいで、それはもう、家庭を持つに値する落ち着きなぞ皆無だった。
「え、どうだろうか? なんもしてねーと思うけど。たぶんあれだろ、あいつらがさ、オレの気持ちを察して断ってくれたっていうか」
「嫌なの?」
「嫌っていうかさ。わかってんのかオレはまだ若いんだぜ? まだまだそんな気にはなれないっつーかな」
「そんなこといっているうちに相手にもされなくなるんだよ」
「何その重々しい台詞! されてますまだ! ………本音をいうとな、オレはおまえの父親になったからには、おまえが成人するまではせめて他の奴になんて任せたくねぇんだ」
「………」
「いやそういってもな、おまえがどうしても家族三人で川の字で寝たいっていうならそりゃあな、オレだって考える。どうしたって男手じゃ事足りなかったりするよな」
 重々しい口調で我が父は決意を述べた。馬鹿だ。心配するだけ損だったのだ。
「多分どんな人でもあなたと僕と一緒に寝ようなんて考えないと思うよ」
「そんなことねぇよ」
「あるよ」
「ねぇ。別に我儘いうつもりはないけど、おまえのことを世界で一番可愛いって思ってくれる人じゃなきゃオレは結婚するつもりはねぇもん」
 あたりまえだろ、と父は胸を張った。これはもう決定である。一生独身らしいかわいそうな父の頭を雲雀は撫でてやった。
「任せておきなよ。あなたの面倒は僕がみてあげるから」
 いざとなれば彼の部下もいるし。
「ちょ………いや嬉しいけど! 何その結論!」
「あなたのファミリーのことも安心していいよ」
 口にした瞬間からすでに微妙な心持になっていた。何といっても群れに群れている集団なのである。視界の端に存在しているのにもだいぶ慣れたし、一人一人なら多少骨のある奴もいるのだが、それとこれとは話が別だ。
「いやそれとこれとは別っていうかな?」
 とはいえ向こうからいわれると腹が立つ。
「なにあなた息子に財産を譲らないつもりなの? とんだ業突く親父だね」
「初めて親父っていわれた…! って違うよな、うん、わかってるんだからな!」
「………その通りだよ」
「いやおまえがな、オレみたいにちゃんとファミリーのこと大事にしてくれるんならな、そりゃ任せてもいいんだ。でもおまえはボンゴレの守護者だろ?」
「知らないよそんなの」
「そろそろ知っててくれよ? マフィアのボスって仕事はなそんな片手間にできるもんじゃねぇ。それにおまえには並盛だってあるだろ?」
「………………そんなこといって他に子供を作る気なんだろ」
「おまえそんなかわいい………いやそんなわけねーだろ」
「あたりまえだろ。かわいくない」
「そうじゃなくてー、オレがそんなことするはずねぇよ」
「どうかな」
 同族経営なぞ、下に就く個々人のやる気を削ぐ状況の最たるものだ。群れている。だがこのキャバッローネでは、詳しい系図などは見たことがないが多分長子相続らしく、そしてそれでうまくいっている。彼ほど人心を掌握し、争いを最小限に抑えて事業を拡大し続けられる男はそういないに違いない。
 だがだからこそきっと、いつかディーノは血の繋がった本当の子どもを持とうとするはずだ。それは責められない。そしてこの人のことだからきっと、馬鹿みたいにかわいがるに違いない。その時自分はどうなるのだろう? 籍に入っているだけの、血の繋がりのない彼の子ども。それにまだ、そうまだ、彼のファミリーですらないのだ。
「恭弥? どうした?」
 問いかける父には答えず、フォークをパンに思いきり刺した。口にはこぶ。おいしい。甘くて、がりがりしている。その子どもにも、ディーノはこんな風にパンを焼いてやるのだろうか? 眠る前にはキスをして、頭を撫でて他愛もない話をして、暇があれば戦って、馬鹿みたいに懇切丁寧な治療をしたり、一緒にシャワーを浴びたりして。
「………恭弥?」
 こんな風にやさしく、名前を呼ぶのだろうか?
 あたりまえだ。きっと親子ならばあたりまえのことなのだ。ディーノならばそんなことはわかっている。だが例えば、だれか女の人と彼が結婚して川の字で寝る、そんなことよりもずっと風紀の乱れる、許せない事態のように思えた。
「ほんとうに?」
「恭弥?」
「ほんとうに………僕だけ?」
「………………そうだ。オレのかわいい、大事な息子はおまえだけだよ、恭弥」
 いかにも無理やり引き出した合意に、警戒を解くほどおめでたくはなかった。それでも嬉しかったのは、彼が簡単に嘘をつくような人ではないことは、知っていたからだ。
「じゃああなたのファミリーも僕のものだよ」
 正直欲しいわけでもないのだが主張した。大体いうまでもなく、親子の財産共有は当然の権利ではなかったか?
「あのなあ、それとこれとは」
「あなたなんて僕と大して年が違わないんだからね。継がせたくないなら長生きすればいいだろ」
「そうか………いやそうか? 確かにそうすればそのころにはボンゴレは定年かもしれねぇが」
 定年制なのか。
「あなたは無駄に頑丈だもの、放っといたってあと七十年は生きるよ」
「ええー? どうかなそれは。てかなんだその数字」
「日本人男性の平均寿命は八十歳だからね」
「恭弥………まさかオレより先に死ぬ気か?」
 みれば父は驚愕の表情を浮かべている。いつだって好きな年齢の雲雀であるが、さすがに十歳以下を自称するつもりはない。あたりまえではないか。
「許さねぇぞそんなこと」
 ぱたり、と蓋が開いたままのクマが倒れて、だが既にほとんど中身を排出していたせいか、被害はほとんどなかった。犯人はテーブルの向こう側からこちらに身を乗り出していて、シャツに裾が皿の上を擦っているのをどこか物悲しい気分で眺めた。このへなちょこ。
「おまえなあ、子供が親より先に死ぬほど親不孝はねぇんだぞ」
 まるでわかったようにいうものだから腹が立つ。知ったことか。
「許さないのはこっちだよ。僕はあなたの子どもなんだろ?」
「え? ああうん、そうだぜ」
「僕が大事なら根性みせなよ。先に死ぬなんて許さないよ。僕不孝じゃないか」
 父はぽかんと口をあけていて、もしかしたら親子にもそんな年功序列は重要とされているのかもしれなかった。だが二十も三十も違うならまだしもたった七歳しか違わないのだし、そんな勝手に偉そうに先に死ぬなんて認められない。
「恭弥」
「なに?」
 それでも何かおかしなことをいったのかなと思わないでもなかった。ディーノはもう立ち上がって、雲雀の肩口に顔を埋めている。お互いにシャツはもう、二度と着れないほど汚れているのは間違いなかった。
「そうだな、子どもが大事なら先に死んで悲しませるなって話だよな。根性みせろよ、って。そうだよな。………そうだ、ああ、そうだ」
「………ディーノ?」
「恭弥。やっぱりおまえは最高だ。最高の息子だよ。オレはおまえにあんな悲しみを絶対味わわせたりしねぇ」
「別に悲しんだりなんかしないけど!………長生きしてよね」
「おう!! 任せとけ!」
「お酒も控えて」
「いやまあ、うん、そうだな? ………食事にも気を遣うようにしないとな! 色々本も買ったし、楽しみにしてろよ!」
「しないよ」
「………恭弥―」
「僕も作るっていっただろ」
「ああ! そうだな! あ、恭弥これ着るか?」
 そういって取り出されたのはピンク色の何物かだった。無残なほどに、卵液ででろでろに汚れたそれに、雲雀は嫌悪の念を滲ませた視線をやった。まったく人の親が、こんな血も涙もない提案をするなぞ、許されることなのだろうか。
「着ないよ」
「そっかー? 似合うと思うがな」
「あなたが着ればいいだろ」
「いやオレはさすがにちょっと………じゃあ勿体ないけど捨てるか。すっげー汚れちまったしなー」
「なにそれ、あなたの趣味じゃないの」
「ちげーよ! 多分ロマの趣味………あ、でもおまえあいつに何もいうなよ! せっかく買ってきてくれたんだからな」
「部下にはちゃんと要望を伝えた方がいいと思うけど」
 いわないでわからないならいったほうがいいだろう。
「突っ込まない方がいいこともあるの。個々の好みは尊重すべきだろ。ちょっとかなりでろでろに汚して使えそうもなくなっちまったから、次はもうちょいシンプルなの用意してくれっていっとくから。あ、洗い替えも必要だよなー」
 気遣い屋の父は勿体ぶって頷いた。そこまで思いやったところでどこまで喜ばれるか、非常に疑問である。














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