目が覚めて、あたりを見渡すと父の姿がなかった。基本的に寝汚い人なので、いつもなかなか起きないし、絞め殺すつもりかというくらいに腕や足を絡ませてくる。起きると二人ともとんでもない体勢になって驚くことも珍しくない。しかも鼻を摘まんでも頬を引っ張っても髪をぐちゃぐちゃにしてみてもうんうんいうばかりでなかなか起きない。厄介な人なのだ。それがいない。トイレでも行ったのだろうか、と雲雀は大きく欠伸をした。
 
残暑といっても体感的にはまだまだ夏であるこの時期、それでも空調の聞いた室内は涼しいといってもいいほどだった。足元のあたりで小山を形成していた薄掛けを引き寄せる。はじめて使った新しい日本での我が褥は、認めがたいことだがなんとも寝心地がよかった。いや、これを手に入れるまでの労力を考えればむしろ、満足のできるものでなくてはとても納得のいくものではない。
 イタリアの家具ではなく、日本のものをこちらに来てから買い求めようといいだしたのは父だ。規格が違うだろうというのがその理由で、よくわからないが確かに一間とか一畳とか、そんな表記が間取り図には書き込まれていたのだし、持ち込んでから使えないなどとなったら面倒である。日本に着いてホテルに寝泊りしながら、だだっ広い我が家、「マンション」という言葉から雲雀が連想するイメージとは著しく乖離したとんでもなく広い部屋に置く家具やら家電やらを探して回った。正直今まで家具などに興味はなかったし、家電なぞいうまでもない。だが店を見て回るのはなかなか愉快な経験だった。イタリアの家に行くのとは違う。二人が居心地のいい場所をゼロから二人で作っていくのだ、とディーノはいった。彼にとってもあの城は、物心ついたときには既に出来上がっていたものなのだ。
 
壁を取り払って、ところどころ柱が残っているだけの我が家は、間仕切りや衝立で部屋を形作っていて、結局そもそもの前振りはどうしたのか、ほとんどの家具がサイズなど考えずに購入可能だった。大きなソファ、ガラステーブル、ふわふわのラグ。不必要なほど大きな冷蔵庫や洗濯機、映画館と張り合ってるみたいなサイズのテレビ。それらについて雲雀は自分の意見を通したり通さなかったりし、ディーノもまた通したり通せなかったりした。だからこの、なんとかアースカラーなるものでまとめられた我が家は、二人の意見の集合体なのだ。
 だがいうなれば寛容で、自分よりもむしろ雲雀の意見を重んじていたディーノもベッドには一家言あるようだった。マットレスや布団の柔らかさもそうだが、ある程度の大きさは寝るには不可欠だというのだ。都心部の大きな、家具屋の本店。馬鹿みたいに図体の大きな我が父ならともかく、一般的な日本人をターゲットにしているというならいくらでも更にダウンサイジングが可能な気がするベッドの群れは、どれも充分大きいと思われるものばかりだったが、ディーノにはお気に召さなかったようだった。
 しかしここは日本で、いくら我が家はかなりの広さがあるといっても、イタリアのそれとは違うのだ。普通の家であったら一部屋占拠しそうなベッドを買うのはよろしくない。郷に入れば郷に従えというではないか。だいたいいつも寝るときは抱き枕よろしくぎゅうぎゅうしがみついてくるくせに、どうしてそこまでのスペースが必要だろう? そう、懇切丁寧に説明してやったのに、どうにも納得がいかない顔をしていた。なんということだ。御愛想顔でついて回ってきていた店員は顔を引き攣らせていて、雲雀は微妙な心持になった。なんといっても父親のことだ。電話越しならこの国の人間とも思われそうなほど淀みなく日本語をしゃべるこの男が、ここまでわが国の住習慣に理解がないとは。ちょっと恥ずかしい。だがそれだけの理由ではさすがに雲雀もこの年配の女性店員をトンファーで制裁するわけにはいかなかった。
 それでも何とか説得して、その店では一番大きなオーク材のベッドを買うということで落ち着いた。シーツやその他諸々の品も、規格品よりも大きくなるわけで、たいそう面倒なことではないかと思われるのだが、まあ買うのも手配するのも自分ではないのだ。それに一度寝てみればスプリングの利いた新しいベッドはとても、そうとても寝心地がよかった。イタリアのそれと比べても遜色がないほどだ。あたたかくてふわふわして、ちょっと苦しいけれど安心する。雲雀はもう一度その喜びに耽溺することを決めて、枕を抱きしめながら大きく欠伸をした。
 異臭がする。
 頭をぐらぐらさせながら雲雀は身を起こした。木の葉が落ちる音でも目を覚ます自分だが、木の葉が焦げる臭いで如きではなかなか起きられないのだ………。焦げる臭い、そう焦げる臭いだ。今度こそ雲雀は目が覚めた。壁がほとんど取り払われた部屋であることが幸いしたのだろう。火元の臭いがここまで伝わってきている。がらがらがらと、何かが落ちるような音もした。
「跳ね………ディーノ!!」
 男二人の住まいにしてはどう考えても不釣合いな開放感溢れるアイルランド式キッチン。そう、間取り図をみたときからなにやら嫌な予感がしていたそこに、臭いを追って辿りついた。そう、予感はしていたのだ。だが雲雀は目を丸くした。
「なにしてるの」
「え? ………その、料理?」
 それはみればわかる。いや、これだけの情報で見ればわかる自分はひょっとして金田一耕助の親戚筋かシャーロック・ホームズの、いや彼は子孫を残してない気が何となくするけれどもそんな存在だろうか。とにかく、ガスレンジから生じる黒煙、および床にひっくり返ったボウルとそこから流れ周囲に飛び散っている、卵と牛乳の混合物とおぼしき液体から、彼が企んでいた所業は推測可能だった。昨夜二人で見たビデオも動機の証拠として立件できるはずだ。妻に愛想をつかれた哀れな男が、幼い息子と作る朝食メニュー。フレンチトースト。
「なにしてるの」
 驚いたのは彼の扮装だった。エプロン。料理をする際のその重要性については雲雀は否やを唱えるつもりもない。服を汚さない。熱せられた油の脅威もある程度防げよう。だがその色、シルエットについてはどうしたって目を逸らすことはできなかった。ピンク。そうピンクだ。我が家庭で幅を利かせる前に一言物申したい色だ。そしてフリル。執拗的に縁に纏わりついているフリルだ。しかも胸当てはあろうことかハート型だった。どういうことだろう。
 ひいた。正直ドン引きである。確かに似合ってはいる。露出している逞しい二の腕の存在にも関わらず、まったく違和感はなかった。知らない人が見ればヴェルサイユのお姫様か何かだといっても、まあフリルだし通用するのではないかと雲雀は思った。かわいらしい。それに例えどのような制服が決まっていようとも、雲雀は学ランを着る。服装の趣味や意識は人それぞれだろう。自分はそんな細かなことまで口出しされたいとは考えていないし、であるとすれば、このエプロンに対しても批判するのはフェアじゃないのかもしれない。だがこれは自分の父親なのだ。普通の家庭では、朝起きて父親がかようなエプロンを着用しているのを発見した場合、息子はどのような対応を取るものなのだろうか。
「その、なんか恥ずかしいんだけどさ、実は朝食を………ってわ! 見た? 恭弥見た?!」
「………見たけど」
 答えると父親は真っ赤になった。へなちょことは思われぬスピードで、エプロンは躰から剥がされ限界までぐちゃぐちゃに折りたたまれる。
「忘れて! 忘れて!!」
「………………無理」
「お願い、な? これしかなかったんだよ。恭弥を驚かせたくて」
「驚いたけど」
 そりゃあもう。大成功である。
「そうじゃなくて! いや、驚いたよな、ごめんな。これはエプロンがこれしかなかっただけで」
「嘘だろ」
「嘘じゃねぇって!! オレはおいしい朝食を食べさせてびっくりさせたかったっていうか。ほら一日の活力源だっていうだろ………ごめんな」
 なにやら必死で反論していた男が、しゅんとする。雲雀は慌てた。なかなか見ない反応だ。
「大丈夫だよ。多少焦げてても僕は平気だしそんな気にすることは………………作り直そうか」
 説得の途中でついフライパンの中味に視線をやってしまったのがいけない。元は多分食パンだったのだろうそれは、固形燃料以外の何ものでもない色をしていた。
「え?」
「まだ材料はあるんだろ? 大体失敗するに決まってるよ。映画でだって二人で作っていたじゃないか」
 汚れた台所。母親のいない家庭。それでも小さな子どもは、自分の与えられた役目にどこか得意気だった。そんなこともわからないなんて、まったく我が父は何を考えているのか。
「そか………そか。よし、恭弥にはパンを卵に浸す係に任命するぜ!!」
「え? いや焼くよ、僕が」
「だーめ。火は危ないんだぞー」
 確かに映画の中で子どもが任されていたのはパンを卵に浸す係である。何も間違ってはいない。だがあのかわいらしい子どもと自分は十は歳が違うはずではないだろうか。しかし反論する間もなく、すっかり上機嫌になったディーノは冷蔵庫から牛乳パックと卵を二つ取り出そうとしている。
「あ」
 卵は万有引力の法則に従ってかわいそうな卵になった。
 いやこの男に買われた時点ですでにかわいそうだったのかもしれない。雲雀はティッシュの箱を引き寄せて床の卵を拭おうとした。だが白身は粘度が高いため吸い込みが悪く、床板の間に入り込む。先々のことを考えて早急に雑巾が必要である。確か一昨日ファブリックを中心に商ういかにも小洒落た店に父と訪れたのだが、さまざまな色と素材のシーツやタオルやトイレだとか風呂のマットなどはあっても、そういえば雑巾は見かけなかった気がする。なんでだろう。新学期になれば並盛中学では生徒たちが掃除用に雑巾を提出することになっているので、追加で風紀委員会でも徴収するべきかもしれない。
 根が割と神経質な性質である。床の隙間に入り込んだ卵を丹念に拭っていると、上からティッシュが数枚落ちてきた。それから大きな手が雲雀の手の上に降りてきて、きゅう、と床を拭く。
「ディーノ」
 目をあげると琥珀の、濡れた瞳があった。確か琥珀は樹の樹脂からできていて、湖の近くにある樹だと、その樹脂が土の間を通って湖に流れ込み、水で冷やされて琥珀になる。船で湖に乗り入れて網で水底の琥珀をさらう、そんな仕事もあるのだとか、以前本で読んだ。地中で固まったものと違って水で研磨されたそれは引き揚げた時点で既に美しいという。だが目の前のそれは、濡れているのに暖かい輝きを湛えていた。
「あんがとな。恭弥はやさしい子だ。オレは世界一の幸せ者だな」
 いつだってよくわからない理由で、にこにこと勝手に幸せそうにしている人だ。何をいきなりまたいいだしたのだろう、と雲雀は思った。ちゅ、と頬の上で音が鳴る。
「まだいってなかったな。おはよう、恭弥」
「………おはよう」
 頬がかっと熱を持ったのがわかる。いまさら、そういまさらな朝の挨拶なのだ。郷に入れば従うべきだと雲雀は考えるし、そうでなくともディーノは修行中の頃からこんなことはしてきた。咄嗟にされるとまだ落ち着かない気分になるだなんて、ばれたら面白がられるに決まっている。
 卵を二人して、一個ずつ割る。多少殻は混入したがパンが吸い込まなければいいだけの話だ。何の問題もない。牛乳を注いで、ディーノがレンジに火をつけ、フライパンを載せる。バターの溶けるいい匂いがした。
「あ………ちっっ!!!」
 振り向けば父が手を盛んに振っていて、フライパンからは煙が立っていた。いくら振っても冷える筈もない手を水道水に晒した。見れば小さな水膨れは既に熱を持っている。
「面目ねぇ」
「何いってるの今更」
 いつも自信ありげにしていればいいのに、そうでないからこちらは調子が狂うのだ。考えて雲雀は笑った。我ながら責任転嫁である。
「なんかかっこわるいっていうかさ。いつもはもうちょっとちゃんとしてるだろ?」
「そうでもないよ」
「え、そうでもないのか? いやほらあれだ、やっぱかっこいいとこみせたいっつうかな」
「いらない」
 父親であるけれども、それと同時にディーノは戦う相手だ。家庭教師を自称するのだから、本人だってわかっているはずだ。下手に今以上かっこいいところを見せられたら、やりにくいことこの上ない。迂闊に高い鼻潰すこともできないではないか。いやそれも面白そうだけれども。
「リボーンにもよくいわれるんだけどな。へなちょこだって」
 じゃっ、と音がして、ボールの中にいた食パンがフライパンに移動した。犯人はへなちょこの長い指だ。我が同意も得ずに。へなちょこ。そう、へなちょこだ。そんなこといわれるまでもない。いままでもいくらだって、そんな言葉で罵倒してきた。屋上のフェンス、屋根にアスファルト、それ以外の破壊されたあれやこれや。
「そうなの?」
 相槌を打ちながらも、よくはわかっていなかった。赤ん坊は好きだ。彼は強い。視界に入っただけで、とんでもなくわくわくするのが自分でもわかる。彼も自分と同じように、我が父を目の前にすると、何か一言いってやりたいような、そんな落ち着かない気分にさせられるんだろうか?
 そう、赤ん坊は強い。だから誰相手でも嘘も世辞も必要ない。思うままに口にすればいいだけの話だ。嘘をつく理由がない。
「ああ、ファミリーのいないとこじゃ、てんでへなちょこだってな。ひっでぇ冗談いうよなー、あいつ」
 ぽかん、と口をあける。なんだそれは。だがきく前に分かっていた。嘘ではない。だいたいマフィアのボスであるという男が、こんないぽんぽんへまをするというほうが間違っているのだ。













inserted by FC2 system