馴染みの洋食屋はいつもどおりとても繁盛していた。
 何もいわずとも奥の個室に通される。顧客として認識されているということか、雲雀恭弥が認識されているということか、あるいはその両方か。洋食屋とはいえちょっとしたコースやそれなりに値の張るメニューもある店である。飲み会や少人数の集まりを想定したのだろう、八人は優に使える個室に二人。少々申し訳ない気分になる。しかも一人は分厚いステーキだのタンシチューだのといったものに見向きもせずに、ハンバーグ一直線な人である。いやそういったものも別に嫌いではないようなのだが、この店ではハンバーグ、ともうすっかり決めてしまっているらしいのだ。未成年相手に酒を飲むというにも限度があるし、とディーノは溜め息をついた。というか、今日は休みでしかも日本であるので、部下に運転を買って出ており、今更撤回するのは少々気まずい。まあ何度か部下を大勢連れてきたりもしているのだから、売り上げへの貢献はそこらへんでチャラになったということでいいだろう。
「あ、てかおまえは食わないのかよ、ロマ」
 個室の入り口でセッティングされている席の数に気づいてディーノは振り返った。ワインの一本や二本、やすやすと空けてくれる頼もしい部下はつれなく手を振る。もともとスピリッツの類を好む酒豪で、故郷では家庭でもサトウキビから蒸留酒を作ったものだと懐かしげに話しているのを聞いてこともあるし、日本では焼酎をロックで飲むのを好んでいる。彼からしたらワインなど水のようなものの筈でぜひ頼りにしたいところなのだが。というか、さっさと席につけ、という意味なのだろうが、一応ボスとその息子にその手つきはないんではないだろうか。こう、しっし、という感じである。
「俺はいいわ。まだ腹へってねぇしな」
「そうか?」
「すぐ外の席でビールでも飲んでるから何かあったら声をかけてくれ。恭弥もいるし大丈夫だろ」
「うん」
 結局飲むんじゃねぇか。というか、そりゃうきうきとここまで愛車を運転してきたのは自分であるけども、つまり今夜はどうやらアペリティフすら許されない、ということだ。いやいいけれども。正直その程度の法の遵守には厳格ではないマフィアのボスだが、かわいい未成年の息子の前でくらいは正しい人間でありたいものだ。
 まあ部下にしても、イタリアの暮らしに慣れた身からすれば、まだまだ夕食には早い時間だろう。こちらの食事が終わって部屋に引き上げたら、他の部下らと、それともマフィアのボスよりも余程デカダンスな志向の部下のことだ、未成年だけれどもさっぱり未成年に見えない未成年を相手に酒を酌み交わす予定かもしれない。マンションの自分達の部屋の下のフロアも、日本に滞在する部下たちの居住スペースとして購入してある。そちらもそろそろ荷運びが一段落しているはずで、皆ちょっとぱあっとやりたい気分になっていることだろう。
「ねえ、はやくしなよ」

「おう。恭弥はなににすんだ」
 既に行儀よく座っている子に促されて慌てて席に着いた。ちょっと躓いてしまったのはご愛嬌だ。まったく、食べもの屋の床というものはどこもつるつるしていていけない。
「ハンバーグ」
「それはわかってるけどな。ほらサラダとか、前菜とかいるだろ?」
「草食動物………」
「知ってるか? 猫も草食うんだぞ」
「僕は猫じゃないよ」
「自分が必要としてる栄養は、ちゃんとわかってなきゃだめだぞ、って話だ。猫すげえじゃねぇか」
 どうみてもおまえは猫だろうと思ったが、あえて突っ込まなかった。少年が大志を抱くのはいいことである。
「まあオレの息子になったんだから、人参くらい食えなきゃなあ?」
 使用不可を申請している呼び名にかけてつついてみる。常々思うのだが父親に対して「はねうま」はない。ちょっとない。他人行儀にも程がある。本人も多少まずいと思っているのか使用頻度は減りつつあるのだが、ふとして時に出るのだ。しかも代わりにへんなあだ名が増えた。息子曰く、「よく馬に乗ってるボス」という意味らしいのだが。
「やだ」
「そういうなって。まあそれなりにうまいぞ」
 正直にいえばディーノも、からかわれるのがわかりきっているから飲み込んではいるが、あの付け合せの人参グラッセというものがどうも好きではない。サラダや野菜スティックで人参を食べるのは嫌いではないので、多分に調理法の問題だろう。自分が苦手なものを子どもに食べさせるのはどうなのか? だが栄養価を考えれば非常に重要な食材で、自分より成長してもらうためにも厳しくあるべきなのかもしれなかった。
「別に食べられないわけじゃないよ。でも、あなたにあげるよ」
「………え? なんで?」
「好きなんだろ? うれしい?」
「………おう、ありがとな。サラダとるからそっちは食えよ?」
 自分も苦手だなんて、とてもとてもいえるはずはない。へなちょこかつ学生の頃に給食の残りを押し付けられる形でもう一生分のカロチンは摂取した気がするのだけれども、しかも寮生活だったので三食そんな感じだったのだけれども、果敢にもディーノは提案を受け入れた。
 今思えば、いじめっ子しかいないような学校でしかも凶悪な家庭教師が睨みを聞かせていたとはいえ、子どもらしい楽しいことも多かった日々だった。少なくともその後のマフィアのボスとしての生活よりは殺伐としていない。表の、実業家としての顔にふさわしい学歴を得るための効率のよい勉強に切り替えたため、普通の学生生活を満喫した時期はそう多くはないのだ。
 だがそうであっても、自分の子どもにあんな生活をさせたいとは思わない。自分のようなへなちょこなら、寮生活に学ぶべきことも多い、そんな考え方もあるのだろう。だが雲雀は充分しっかりしている。長期休暇以外は親と顔を合わせない日々が正しいとはとても思えないのだ。金持ちの子弟向けの学校だったから給食を含め三食とも味はそう悪くなかった。だが、ちょっとしたご褒美に好物を食べさせてやったり、いつもより豪華な食事でお祝いしたり。そんな些細なこともきっと大事なことだろう? 雲雀の好物のハンバーグ。修行して近くを回っていた頃、彼はすぐそれをリクエストしたし、食べるとなるとその機を逃さずに腹いっぱい詰め込んだものだ。成長期だからとその頃は大して疑問を抱いていなかったけれども、雲雀は本来そう大食な方ではない。少なくともあそこまで体を動かすことを考えると驚くほどに。あの子どもの生まれ育った家が、食べるにも困るような状況でなかったことも今は知っている。却ってその逆、かなり裕福な家庭な筈で、そのことがむしろ問題なのだ。ああ、自分は情けない親だ。カロチンや、種々のビタミンや栄養について考える。食事への感謝や選好みしないことを教える重要性について考える。そして同時にそれよりも彼が必要としている、好きな料理とそれをいつでも食べられると自覚することについて考えるのだ。
「サラダ? なんで」
 だがあれだ、こういうのを親知らずというのだろう、さっぱりわかっていない顔で我が子は目を丸くした。
「健康のためなの! ほらこれはどうだ、このシーザーサラダ………」
「の?」
「………気まぐれ子悪魔風?」
「はずかしいね」
「はずかしいの頼んでやるから食えよ。大丈夫だここには共食いだなんていう奴はいないから」
「………なにそれ?」
 即座に店員を呼ぶ。ありがたいことに説明しなければならない状況に陥る前に、信じがたいほどの速さでハンバーグとパンが運ばれてきた。どう考えても雲雀効果である。そしてわかってはいたがこの子どもは好物から食べる派らしい。さっさと懸案の、釘付けにされているハンバーグの隣で縮こまっている野菜を引き受けてやろうとフォークを伸ばす。多人数向けの個室であるのでテーブルも少々大きく、つまりはターゲットは思ったより遠かった。
「! なにするの」
「ん、人参食ってやろうとしたんじゃねーか。あ、一口食うか? ………って、あっちぃ!!」
「………」
「うあー………あちい。恭弥も気をつけろよ」
 この、ハンバーグには付き物の鉄板という奴がどうにも凶器である。使いようによっては人も殺せる気がする。なんとか人参は引き受けたものの、思い切り触ってしまった。火傷にはなっていないと思いたいのだが。
「食べ零さない」
「おお、えらいぞ」
「あなたがだよ」
 着々と食べ進めている息子の視線の先を辿れば、あまりの熱さに手を振ったときにミスったのだろうか、自分のシャツの胸元に大きな染みが出来上がっていた。
 「………」
 大体ソースというものは基本的にはじけやすいものである。それはわかっている。だがどうも人と比べても自分は服を汚しやすいし、雲雀は少しばかり潔癖な性質である。
 これはよろしくない、とディーノは思った。近いうちに着手するつもりの一大事業についてだ。練習の成果を生かして、きちんとおいしい食事をこっそり作り上げることが出来たとしても、もし向かい合って座る人間の服がすっかり汚れているのを見たら雲雀はいい顔をしないだろう。だが、料理というものは温かさが重要で、出来上がって皿に盛り付けて、それから身支度をするなんてそんな悠長なことはいえない。
「食べないの?」
「へ? ………いや、食べる、食べるぜ!」
 指摘されて我に返る。慌てて人参を口に放り込み、ナイフをハンバーグに当てた。そこで自分のなすべきことに気づいた。天啓、という奴だろうか。
「そう?」
「ああ。あ、でもな、先に食べててくれ。すぐ戻る」
「出てすぐ右の突き当たりだよ」
 トイレだと思われてる。しかし訂正する間も惜しんでディーノは個室の外に出た。すぐそこに忠実なる部下はいて、そしてまだ彼が頼んだであろうビールは運ばれていなかった。間一髪。というか何故ビールよりはやく、ハンバーグが運ばれるのかという話だ。どう考えても理由は我が息子である。
「あ、ロマ。頼みがあるんだけど、いいか?」
「おお、どうしたボス」
「帰り、さ。おまえが運転して欲しいんだけど」
「それは構わねぇが。なんだ一杯やりたくなったか」
「いやそうじゃねーよ。ほら、近いしオレらは歩いて帰ろうかとおもってな。ほらええとそうだ今日は晴れてるから星が綺麗だろうし。ロマンチックだろ」
「………そうか」
 我ながらなんだそれはだ、とディーノは思ったが、部下は素直に頷いた。忠実で出来た部下なのである。
「でさ、その、まだ店は開いてるし、ついでに買い物を頼みたいんだけど。………いいか?」
「なんだ、水臭えな。何が欲しいんだ」
「エプロン」
「………………へ?」
「エプロン」
「ボス、あんたまさかと思うが、料理なんぞするつもりじゃ」
「いや違う! 違うって! そんなはずねぇだろ」
 咄嗟に否定する。他の何に使うのだという話で、我ながら嘘が下手である。だがこの部下はたいそう過保護というか心配性というか、まあ自分の立場を考えれば当然であり感謝すべきことなのはわかっているのだけれども、とにかく料理をするなどといえばまず間違いなく反対されることはわかっている。
「そうか、そりゃそうか。あんたが作れるはずねぇしな。いやボス、まさかあんたエプロンで他に何するつもりだ」
 そんなことねぇんだぞ、と否定してやりたい気にもなったが、その時部下が疑わしげな視線をくれた。これはやばい。どう考えてもばれている。
「ほらあれだ、その、なんていうかさ、男の浪漫っていうか!」
 最近は男性が料理をするのも流行っているらしい。本国では休みに友人や恋人に自慢料理を振舞う男性も多いらしいのだ、と聞いたことがある。自分の周りではとんと見掛けはしないが。とにかく、自分だって出来ないはずはないと部下を説得しなければ。
「………そうか?」
「そうだろ。とりあえず使ってみたらうまくいくかもしんねーだろ。恭弥も喜ぶだろうし」
「いやそれは、あんたが楽しいだけだろ」
 辛辣な答えである。だが確かにまだまだ初心者で、メニューは一つのみ。仕事もあるし毎食家で作ってやるというわけにはなかなかいかないだろうとも思う。だが料理の本も買ったし、問題はいずれ解決するはずだ。
「そりゃそうさ! でも、それはオレの努力次第っつうか、だんだん恭弥も喜ぶようにしてやれるかも知れねーだろ。いつも同じじゃ飽きるし、そこはいろいろ」
「………ボス!」
 寿司とか作れるように、と続けようとしたところで部下が遮るように大きな声を出した。
「お、おお?」
「わかった、俺に任せておいてくれ。あんたは早く飯食いに戻れ、な?」
「ああ! あんがとな、ロマーリオ! 恭弥、恭弥! 今日は二人で歩いて帰ろうぜ!」
 個室の入り口に頭だけ突っ込んで声をかける。雲雀は今まさに口に入れようとしていたハンバーグを皿に戻して、なんで、といった。うん、行儀正しい。
「ほら、夜になれば結構涼しいしさ。星でも見て歩かねえ?」
「………なにそれ」
 うん、なにそれ。自分でもなにそれだ。さすがに雲雀には通じるはずがなかった。だがここでひくわけにはいかない。
「いや、おまえの目のほうが星空より美しいのはわかっているがな………あ、すみません」
「………いえ! お待たせしました!」
 個室にさっさとはいらずにいた自分がどう見ても悪いのだが、雲雀の、もとい子悪魔のサラダを運んできた店員はとんでもなく恐縮した顔をしながら迂回して、テーブルまで皿を運んだ。
「ちょっと食うか?」
「うん」
「お、いいこだなー。あ、そうだ新しくレンタルビデオショップが出来たみたいじゃねぇか。そこ寄ってみようぜ………って食ってみるかっつったのはオレのハンバーグのことじゃねぇよ!!」
「ケチ」
「ケチじゃねぇの。ほら、これも一緒に食っちまえ。な?」
 切り分けたハンバーグと一緒にサラダも皿に乗せてやる。ボイルした海老がトッピングされていたのが幸いしたのか、素直に食べ始めた。
 ディーノも口に運ぶ。うん、やはりおいしい。敵は強大である。ここまでのものを自分は作れるだろうか。祖国の料理人が教えてくれたレシピもまた、たいそうおいしく、そして「ハードルをこちらから上げることはありませんよボス」と、一度雲雀がとても喜んで食べているのを見てシェフに教えを請うた以後は、食卓にハンバーグが乗ることはなかった。意味がわからない。秘密特訓だとか。
 それでもボスの息子の喜ぶ料理を出したいという思いはあるらしく、なんかこう、一生懸命頑張った和食、みたいなものが何度か食卓に並んだ記憶がある。いや、「和食」だという枠にとらわれなければ、さすが我がファミリーの料理人、美味であるとボスとしてはいいたいものである。おいしかった。多分なんとかキュイジーヌだと言い張れば。ただ息子は微妙な顔をしていたし、多分ハンバーグを出した方が受けはよかったろう。それでも彼の優しさはわかっている。そしてボスとしての優しさとして、「肉じゃがにトマトは入れるな」とその一言が口に出来なかったのだけども。あと煮魚にも。いや確かにおいしかったのだけれどもそれは違う。
「ビデオなんてあなた、馬鹿みたいに持ってるじゃないか」
 いわれて我に返った。イタリアにいる間雲雀は暇に任せて、ディーノの持っている映画のDVDを端から観ていたようだった。
「ん、ああほら、あれだ。それはイタリアに置いてきちまっただろ。それに買っとくとつい寝かしちまったりするけど、借りれば絶対見るじゃねぇか。あとほら、なんか覗いてみたくねぇ?」
「………そうだね」
 やはり並盛における新規店舗はかなり興味があるらしく、雲雀は頷いた。そこまで大きな店でないから駐車場は大きくないだろうし、歩いていった方がいい、という提案は不自然ではない。ここまで来れば障害はほぼ取り除かれたといっても過言ではないだろう。ディーノは上機嫌で頷いた。




 翌朝、ディーノはいつもより一時間ほど早く目覚めた。朝が苦手な人間からすれば、奇跡といってもいい状況である。それだけ決心が強いということなのだろう。朝食。ハンバーグはすぐにでも調理可能で、だが朝から食べるには重過ぎる。しかも昨晩かなり美味なるものを食べたわけで、腕にそう自信がない身としてはしばらく距離を置きたい所存だ。だがひとつ、作れるメニューがある。
 
きっかけは昨夜息子と観た一本のビデオ。妻に逃げられたダスティン・ホフマンが作っていたメニューだ。汚れた台所、その詳しい収納状況も知らない、不器用な男。それでも調理可能だったのだから、自分にもできないはずはない。そうではないか? それに一日の活力は朝食からだという。ぜひとも作ってやりたい。それに冷蔵庫の中の豊富ではない食材でもそれは製作可能なはずだ。
 
意気揚々と前日に部下からこっそりと手渡された紙袋を開ける。そこで呆然とした。取り出されたものはなんかピンクだった。フリルもついてる。エプロン。確かに自分はそう頼んだし、渡されたものはそれに相違ない。だがとんでもなくピンク。極めつけに胸当てはハートの形をしていた。これをどうしろというのだ。
 幼い頃からそばにいる部下。いつだって落ち着いていて男らしく渋くて、照れくさくていえたことはないが憧れていた時期もあるくらいなのだ。ディーノはエプロンを眺めて溜め息をついた。いや、服や諸々の趣味がどうあろうと、それで大事な部下への対応を変えるつもりはない。取り敢えずは今日だけはこれを身に纏ってミッションを成功させねばならないだろう。














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