懐かしい友人と久しぶりに顔を合わせた。
 方やマフィアの世界に籍を置く男、方や一代で財を築いて、今や大農場の主とまでなった男である。やくざ者と堅気。今さら会ったところで話題にも困るだろう、そう考えたのは杞憂というもので、芋焼酎がロックでグラスで一杯、胃の腑にすっかり納められたころには、共に貧しく鬱屈し、それなのに夢に溢れていたあの頃に逆戻りしたみたいに打ち解けて、下らない話をしては笑いあっていた。
 だがとうに俺が捨てた、そして今も彼が暮らしている祖国ではなく、また今現在俺が暮らしているイタリアでもなく、アジアの島国で再会することになるなんて、何とも不思議な感じがする。俺は仕事で日本を訪れるのはそう珍しいことではないのだけれど、彼は自分の持つ土地から殆ど離れないで暮らしている人間だ。今回の渡日は、結婚十何周年だかの祝いの旅行なのだそうで、まあ、幸せそうで結構なことである。手紙のやり取りだけは欠かしていなかったから、今回の彼の予定を聞いて、じゃあ日本で酒でも飲もう、という話になったのだ。気を遣わせてはいけないと彼には話していなかったが、下の者にも優しい我が上司は、嫌な顔一つせず渡日の日程を数日早めてくれて、まったくありがたい話である。だがこうして酌みあわしているのがカシャーサではなく、芋焼酎とは。まあこの酒は最近の俺の気にいりで、蒸留酒であることも、独特の風味も、どこか懐かしいあの酒を思い起こさせるものではあるのだが。それにシュハスコと焼き鳥も、よく似た料理であるといって過言ではないだろう。
「ロマーリオ! 飲め、もっと飲め!」
「飲んでるさ。おまえみたいな酒豪と一緒にするな」
「何いってるんだ。ショッピをいくら飲んだって顔色を変えないって、いわれていた男が」
 どん、と彼が叩いたのは重厚な一枚板のテーブルである。村の小さな小学校で、今にも壊れそうな同じ木製のテーブルを並べて学び、同じ教師に頭を叩かれ、同じ宿題を写しあい、一つのオレンジを二人で分けあった昔を思い出せば、何とも感慨深い。そういえばあの頃から俺は、勉学でも腕っ節でも、彼に勝てたことは一度もなかった。もちろん、マフィアとして数々の修羅場を潜り抜けた今であれば、彼と喧嘩をして負ける筈もないけれども、それはそれとして、馬鹿みたいに重いサトウキビを植え育て収穫し続けた男の常として、彼の上腕は丸太のように太い。加えて今は成功した、幸せな一男三女の父である。羨望の思いは確かにあるのに、今俺が卑屈さと無縁でいられるのは、彼の大っぴらで温かな性格によるものだろう。昔から懐の広い、優しい男だった。
「息子ってな、かわいいもんだぜ。目に入れても痛くねぇ、ってなぁこのことだ。わかるか」
「ああ。ああ、何度も聞いた」
「忘れてた昔を思い出させる、っていうかな。俺によく似た悪ガキなんだまた」
 得意そうに愚痴をいう、その様子に目を細める。結婚して何年も経ってやっと息子を授かった際に貰った手紙は、そりゃあもう歓びに溢れたものだった。かわいくて仕方がないのだろう。その息子も今は十かそこらにはなるはずだ。生意気盛りであろうことは容易に想像できる。
「そりゃ大変だな」
「おお。ブラジルの猛き狼と呼ばれた男だって、あいつを見たら驚くに違いねぇぜ」
「ぐ!! いやおまえそれは」
 気管にはいった酒の襲撃によって反論するまでにわずかばかり間が空いた。
「しょっちゅう喧嘩ばかりしてる。仕方のねぇ奴だよ」
 むしろ得意げに友は続ける。むせ続けている旧友への優しさはどうした。
 ブラジルの猛き狼。そう呼ばれていたころ時期もあった。村から一歩もでたことがない、十かそこらの子どもの頃の話である。もちろん子ども内だけの、不良ぶって格好つけた名で呼びあっていただけの遊びだ。よき父となった男からすればそんな時代もあったなといつか話せる日が来たとでもいうような懐かしくも誇らしい話なのかもしれないが、マフィアにまでなってしまった人間からすればもう、顔から火がでそうに恥ずかしい。
「つっても最近はサッカーに夢中だ。この前は一緒に試合を見に行ったが、俺なんかよりよっぽど選手に詳しいんだよ。将来はプロになるかもしれねぇ」
「………おお。そうなるといいな」
 親ばかである。だが俺は気を取り直して相槌を打った。これがザリガニ釣りでは学校で並ぶものなしといわれた男の今の自慢なのだ。
「たまに練習にもつきあってやってるんだが、なかなかいいシュートなんだ」
「ああ、そりゃ有望だ」
 幼い子どもの将来を願ってかちりとグラスを合わせる。メニュー表の芋焼酎のラインナップ。上から地道に攻めていって、そろそろ中盤に差し掛かりそうだ
 
こちらは寂しい独身男である。家庭の味なんぞ全く縁のないままこの歳まで来てしまった。深い仲となった女性が今までいなかったわけではないけれど、こんな稼業の人生に巻き込むだけの覚悟も愛情も持てないまま出会っては別れ出会っては別れ。不甲斐ないといえばこれほど不甲斐ないこともないだろう。そんなセンシティブな友人の気持ちを思いやって酒の肴にする話題は選択して欲しいものだと、すっかり出来上がっている男に恨み節を聞かせたい気持ちもないではない。ないではないのだが、よくよく思い返してみれば昔から、御節介で強引な男だった。暖かい家庭の話を聞かせることで、こちらを身を固める気持ちに持っていけたらくらいのことは企んでいないともいいきれない。
「そりゃ娘だってかわいいんだけどよ、どうしたって母親と結託しちまうしな。それに正直にいうとな、いや、笑うんじゃねぇぞ?」
「なんだよ」
「笑わねぇか?」
「多分な」
「………息子のサッカーとかキャッチボールの練習に付き合うって奴、結婚した頃からずっと夢だったんだよ」
「……………ふ」
「おっまえ! 笑うなっつったろ?」
「いやわりぃ。おまえを笑ったんじゃねぇって」
 窘めてきた友人も思わずといった感じで笑いだして、二人して背中を叩きあった。笑い上戸なのは相変わらずらしい。
「ほら、もう一杯いこうぜ。なんか追加するか? このつくねって奴がなかなかうまい」
「おおいいな………って話をずらすんじゃねぇよ」
「ずらしてねぇって。ほら飲め飲め
 
実際彼を笑ったわけでは決してない。ただ気づいただけだ。家庭なぞ持たない自分が友人の息子自慢を愉快に聞いていられるのは、もちろん彼の大らかな性格もあるだろうが、それ以上に自分にはファミリーという存在があるから。俺と同じ、まっとうな世界ではとても生きられない奴らばかりだが打ち解けてみれば、皆優しくていいところもあるそんな仲間たちで、何でだか今の暮らしは性にあっているらしいのだ。だがそれ以上に、息子のように思っている人が俺にいるからであると、そういうことなのだろう。
 もちろん彼は俺の上司で、仕事もでき腕も立つ、どこからどう見ても立派なマフィアのボスである。そんな人が俺の息子だなんて、我ながらおこがましいにもほどがある。だが俺を含め、ファミリーの中枢を担う幹部連中は皆、彼が幼い頃からその成長を見守ってきていて、どうしたってそんな度を超えた愛情を彼に向けてしまうのだ。それに、俺はあの頃、当時のボスであった彼の父親に信用されていたということなのか雑用を任されていただけなのかは微妙だが、よく彼の世話というかおもりを任されたものだった。そんなわけで、友人が憧れていたらしい、サッカーだのキャッチボールの練習はもちろん、虫捕りや魚釣りを教えてやったり、バーベキューだとか、それや授業参観に出席したりなど、一通りのイベントはこなしている。慣れない異国に来たばかりの俺は、何度彼の存在に救われたか知れない。
「しかし、おまえの息子がねぇ。生まれたって聞いたのがついこの間のような気がするのにな。月日がたつのは早いものだぜ」
「それはおまえが歳とった証拠って奴だ」
「なにを? おまえは俺より一カ月も年寄りじゃねぇか」
 手羽肉を噛みちぎっていた老人は明らかに嫌な顔をして、つい笑った。
「だが十歳か。………一番無邪気な頃だろうな」
 大きく嘆息する。我が上司がそれくらいの年だった頃の記憶は今も鮮やかだ。辣腕で鳴らす家庭教師が着任する前のことで、坊ちゃんは………じゃねぇボスはまだまだ子ども子どもしていた。泣き虫でおっちょこちょいで、でも優しくて。ああ、そこは今も変わっていない。クリスマスに貰った赤いミニカーを大事にしていて、大人になったらレーサーになるんだとかなんだとかいっていた気がする。俺も、他のファミリーの連中も強いて彼の夢を否定するようなことは口にしなかった。まだ子どもらしいままでいて欲しいと思っていたのだ。
「ああ。まぁ………いやどうだろうな」
 懐かしい思い出に唇を緩める俺に対し、友人は何とも歯切れの悪い返答をする。思わず目を見開くと、こちらの不審げな様子に気づいたか、彼はぼんじりの串を持ったまま大きく手を振った。
「いや、違う。我が息子ながらいい奴なんだぜ。優しい子だ。だが無邪気っていわれるとな、………いやぐれたりなんぞしてるわけじゃないんだが」
「なんだ。なんかあったのか?」
「別にそんなんじゃねぇよ」
「なんだよ、いっちまいな。楽になるぜ」
 幸せいっぱいだとばかり思っていた友人の困惑した様子に身を乗り出す。俺もそうだが彼もどこか不器用なところがあって、何かあっても咄嗟に平気だと虚勢を張ってしまう性質だ。それが悩みを持っている様子を見せるのだから、これは何か大事に違いない。打ち明けがたい気持ちはわかるが、こちらはとうに成人した息子を持っている男である。何ごとも経験者に話を聞くのが一番だというではないか。昔取った杵柄、泣かされて帰ってきた時の対処法ぐらい心得ている。
「それがな」
「ああ、どうした」
「………こっちに来る前に息子によ、ヤスミンとつきあうことになった、っていわれてよ………」
「ヤスミン?」
「クラスの女の子だ。背が高くて金髪のかわいい子だよ。話に聞く限りかなり気が強いが」
「なんだ、めでたい話じゃねぇか」
 拍子抜けである。ここは一杯おごって祝ってやるべきシチュエーションなのであろうか。
「………キスした」
「ああ?」
「キスしたっていってた。なぁ十歳だぞ、十歳!! ロマーリオ、俺達がその年頃だった時は違ったよな? もっと無邪気で純粋だった。純情だったんだ」
「へ? ああそうだな?」
「きっとテレビだのパソコンだので煽情的な情報が溢れているせいだ。昔はこうじゃなかった」
 確かにそうじゃなかった。だが無いならば無いなりに子どもは工夫するものだ。兄貴のグラビア雑誌をくすねてはクラスメイトに貸していた男の台詞とは思えない。俺は軽く眩暈を覚えた。
「いやだがな、キスくらいかわいいもんじゃねぇか」
「しちゃいけねぇっつってんじゃねぇんだよ、そりゃ。だがななんていうか………だってまだ十歳なんだぜ」
「そりゃ確かに早いな、とは思うが」
「だろ? まだ子どもじゃねぇか。俺達の頃は違ったよな、違ったよな? ロマーリオ」
「ああ、ああそうだな」
「そうだろ? ブラジルの猛き狼だってアナと顔をあわせると生まれたての子羊ちゃんみたいにぷるぷる震えて物もいえなかったじゃねぇか。その癖髪を引っ張って泣かせて、自分の方が真っ青な顔して狼狽えてたりしてよ」
「な!! てかおまえ何を!」
 アナ。アナ・マシャード。
 二度目の酒の襲撃に打ち震えながらも俺はその顔を脳裏に浮かべた。二十年近く忘れていたのに、その名を耳にするだけで鮮やかに彼女の姿が思い出されるのだから不思議なものだ。艶やかで真っ直ぐな黒髪。つんと上を向いた鼻。僅かにひいでた額、きらきらした勝気な瞳。彼女は優等生で芯が強くて、その癖俺の周りいる誰よりも優しかった。悪ガキだった俺は問題を起こしては彼女に注意されたものだった。いや、あの頃の俺は彼女の注目を得たいがために、馬鹿みたいないたずらを繰り返していたのかもしれない。まさかその挙句に泣かせてしまうなんて、想像もせずに。
「………アナか。懐かしい名前だな。今頃何してるんだろうな」
 勤めて冷静さを装って俺はひとりごちてみせる。告白すらできなかった幼い恋なのに、思い出してみれば今まで出会った女性たちの中で、彼女の存在だけが燦然と輝いている。まるで彼女にだけに本当の恋をしたとでもいうように。昔の憧れを美化しただけだということは自分でもよくわかっているのだけれど。
「ああ、今じゃ村一番の医者の奥方様だよ。一番上の息子がうちの真ん中の娘と同い年でな。超かっこいい、んだそうだ。まったく若い娘は、見た目にごまかされて」
「あー………うん、そうか」
 知りたかったけど知りたくなかった、というのが正直なところだ。しかし、こちらの内心なぞ知る由もない友人は、どうやら息子息子騒ぎながらも、娘三人のことも随分とまたかわいがっているようだ………娘たち自身がその干渉を歓迎しているかどうかは別として、だが。
 本音をいえば一言物申したいことはある。おまえがいうか、と。そう、率直にいえば、ブラジルの血に飢えたピラニアと周囲に讃えられた男だとて、隣のクラスだったベアトリスに話しかけられると瀕死状態の金魚ちゃんみたいに真っ赤になって口をぱくぱく喘がせるばかりだったのだ
 
俺がその明白な事実を指摘しなかったのは、旧友に対する優しさだとか、博愛精神の表れだとか、そんなご立派なものでは断じてない。ベアトリスは今日一日、銀座の路面店を回って、娘たちと自分へのおみやげのアクセサリーやバッグを入手すべく奔走している筈である。その事実だけでも、十数年たっても友人と彼女の力関係に大きな変化がないことは歴然としているのだけれども、少なくとも彼はあの頃の幼い恋を成就させた勝者であるのだ。この俺が何をいえよう。そういえばベアトリスも、決して小柄ではない友人と並ぶくらい背が高くて、金髪で、そしてとんでもなく気が強かった。よくわからないが、血を分けた父子というものは異性の好みすら似てくるのかもしれない。正直まったく羨ましくないけれども。
「だが息子の恋がうまくいったんならめでてぇことじゃねぇか。祝福してやれよ」
「そりゃ勿論だけどよ、まだ早いだろ………それにな、ロマーリオ」
「ん? どうした」
「サッカーやキャッチボールの練習もそうだけどよ、息子が成長したら大人の男として恋愛相談に乗ってやるってのにも、ずっと憧れてたんだよ………」
「そりゃ………あれか。彼女の前で赤くなって口をぱくぱくさせると、きっとほだされてくれるぜ、みたいな奴か」
「なんだそりゃ? ………ロマーリオ、おまえ実はもてねぇのか?」
「………いや。ああ、いいけどな」
 わからないのならたぶんその方がいいのだろう。俺は大人しく杯を呷った。
 そういえば、サッカーやキャッチボールの練習だけじゃなく、我がボスとのイベントは一通りこなしてきたつもりの俺だったが、恋愛相談に乗る、って奴は経験したことがない。考えてみればそれも当然のことで、我がボスは非常にもてる。顔立ちは整っていて、容姿はこれ以上ないってくらい魅力的だし、人当たりも良く、地位も金も存分にあるときては女性の方が放っておかないのだ。パーティーなどに出席すれば、ものの数分で美女に囲まれているなんて場面に何度遭遇したか知れない。
「まあ、あれだ。いずれきっと、ほら、デートに誘いたいけどどこに行ったらいい、とかそんな相談があるかも………もしかしたら」
「そっか、そうだよな!!」
 ぱあっと明るい顔をして、我が友は大きく首肯した。うん、どうだろうな。人のことはいえた柄ではないとはいえ、友人の不器用なアプローチのあれこれを傍で見ていた人間からすれば、彼の息子が理想的な相談相手と父親を見做すかどうか、かなり不安があるのが正直なところだ
 
とはいえ彼の夢が叶うことを願って、俺たちは今夜何度目かの乾杯をした。さて次はどの酒を頼もうか。











inserted by FC2 system