僕の先生はフィーバー




 並盛中学に在籍する女子生徒たちは興奮していた。
 いや女子生徒だけではない、女性教諭から売店のおばちゃんまであまねくすべて浮かれきっていた、といって過言ではない。辛辣な言動で知られる黒川花をもってして、「デブとハゲとオヤジしかいない」といわしめた並盛中学の男性教師の群れに、前触れもなく一人外国人教師が加わったのである。それは例えるなら、サハラ砂漠のど真ん中に一晩にして大輪の薔薇が咲き誇っていた、みたいな状況であろうか。注目を集めずにはおれない存在なのだ。
 そんなわけで、昼休みだというのに彼女たちは母親手製の弁当の存在なぞ忘れきって、集団の持つ勢いそのままに、かの教師を取り囲んで質問攻めにしていた。先生はどこの国の人なんですか(イタリア人だそうである………何故英語教師がイタリア人なのかさっぱり分からないし、そして母国語でないために彼の英語に何かアクセントの違いがあろうとそれもまたさっぱり分からないだろう、とは思うがとにかく驚きである)、何歳なんですか(海外で外国語を教える、というイメージから予想していたよりもあまりに若い)なんて基本的なものから、何座なんですか(「水瓶座だぜ、牡牛座とは相性がいいらしいんだよな…」などとウインクをしながらいうものだから件の時期に生まれた女生徒の数人が気絶しそうになった)とか和食では何が好きですか(「何でも好きだ。まあ、最近は寿司とかハンバーグとかよく食べるな」ってハンバーグは和食じゃないしこれはイタリアンジョークとして笑うべきところなのだろうか)なんて細かな質問まで、代わる代わる口にする。気さくで優しい人らしい先生は、明らかに授業には関係ない質問にも一つ一つ答えてくれて、ありがたいなとは思うけれども、だからといってそうそうに開放して差し上げるわけにはいかなかった。
 つまり、少女たちには、どうしても聞きたくてでも聞くことのできない質問が一つだけあったのである。
 その絆創膏はどうしたんですか、と。
 聞きたい。でも聞けない。こんなハンサムな先生にハシタナイ子だなぞと思われたらとても耐えられない。だけど知りたい。そんなわけで彼女たちはだんだんとどうでもいいレベルまで細かくなっていく質問を繰り出しながら、誰かがその決定的な問いを口にしてはくれないかと期待していた。
 首筋の絆創膏。その意味を想像できない程、女生徒たちは子どもではない。もちろん、風紀を乱せば凄惨な制裁が風紀委員から与えられる並盛中学に於いて、男女交際をしている者なぞ稀であるし、更に性的な経験がある者なぞ皆無といっていい。だが例えば、クラスの女子の間で回覧されるのが習わしとなっている少女漫画雑誌などで、そのようなシチュエーションは最早煽情的とはいえないほど、ありふれたものであったりする。真面目で委員なんかやったりしているような女の子が、学校一のイケメンに空き教室で迫られてなんだりかんだり。そして、いつだって男はいいところでその場を去って、後に残された女の子はなんでだかそこで真面目さを発揮して身支度を整えて授業に出ようとし、キスマークを………そうキスマークを隠すべくそこに絆創膏を貼ったりするのだ。いうまでもなく、ただ単に怪我をした、という可能性も捨てきれない。だが指や手だとかならともかく、首筋なんてそうそう怪我などしない。そして先生はどうみても真面目な生徒というよりはイケメンの方で、だがそのような情痕を残されたとするならば相手の女性は相当積極的な人なのだろうか。大人の恋愛………自分たちにはまだ遠い話で、だいたい相手だっていない。我が校一のイケメンといわれる人たちは数人いて、だがその誰もが女の子より他のことに興味があるように見える。だから漫画のような恋愛なぞ夢のまた夢だ。そんなわけで、生徒じゃない人も範囲の内なら、文句無しで学校一のイケメンといっていい先生の恋愛事情が、知りたくてたまらないけどとても聞けない。身悶えしたいのを堪えながら少女たちは好きなスポーツは何ですかとかどんな音楽が好きですかとかそんな問いを思いつく限り口にした。

ディーノは困惑していた。
もちろん今までの人生で女性に囲まれた経験が皆無という訳ではない。そんなものは誰だって男であれば時折直面せざるを得ない困難な状況の一つでしかないのだ。だがディーノは学生の頃はへなちょこであまり女性にはもてなかったし、そんなピンチに陥いるようになったのは大人になってから、マフィアの歴々が集まった席上だとかそんなシチュエーションに限られる。そしてマフィアの宴席にカジュアルで気軽なホームパーティーの類は存在しないのだ。いつだって主催者側は自分たちの経済状況や力を示すべく大がかりに催すのが恒例で、つまりは参加する女性たちの殆ど全てが、エスコート役の男性がいらっしゃるのである。当然ながら彼らの存在が気になるのか、それとも今目の前におわします幼きレディたちよりは多少年齢的にも落ち着いているせいかもしれない。暇つぶしに若年のマフィアのボスをからかっているときも、彼女たちはここまで執拗に根掘り葉掘り質問してくることはなかった。美しい方々にお聞かせするような話はないですよとか何とか、適当に誤魔化してその場を去ることは可能であった。だが今はどうやって彼女らの問いをやり過ごすべきか想像もつかない。
ていうか。
(日本の学生は熱心だなぁ………)
 自分の学生時代を思い返しても、ディーノがここまで教師のプライヴェートに興味を持ったことはない。というか、知れば知る程恐ろしい事実が露わになる家庭教師であったので、如何に不審であろうとも強いて詮索しないようにしていた、というのが実情であろうか。だからこそ、十年の付き合いを経て今さら、呪いだの何だのという話を聞いて驚いたりもしているのである。
 だが、よく考えなくとも、教師との信頼関係を深めるにはその人間性を知ることが早道であろう。しかし、こちらから話すのではなく、生徒の方からあれこれと質問してくるなんて、全く学生の鏡である。出会った頃には、どんな話を聞かせようとしても「咬み殺す」「うるさい」「おなかすいた」ぐらいの返答しか返してくれなかった弟子にも是非見習ってほしい熱心さである。いや熱心といえば、あれほど戦闘に熱心な子どももいなかろうが。
(あいつ今頃、何してるんかな…)
つい、未だに手懐けきれてない弟子のことを思い出して、ディーノは何とか漏れそうになった溜息を誤魔化した。約束を反故にされて以降、顔をあわせていないのだ。ついつい心配してしまうのは、最早習い性といってもいい。

 雲雀恭弥は驚愕していた。
(………なにこれ)
 きっと怒鳴りこんでくるだろう、凄く怒って本気で戦おうとするだろう、もしかしたら銃位持ちだしてくるかもしれないと、わくわくわくわくわくわく待てど暮らせど、さっぱり顔を見せなかった薄情な家庭教師が、何でだか我が校の廊下で群れきった女子生徒たちに囲まれている。しかもなんか変な格好して。
「あなた、こんなとこで何してるの」
 思わず問いかけると、群れていた女生徒たちがきゃあ、とかヒバリさん、とか口々に悲鳴をあげた。女生徒にこのような態度をとられるのはいつものことで、何やら名前を呼ばれても、問いただすと明確な要件はないのが殆どである。相手にせず、そのまま雲雀は歩を進めた。
「あ、恭弥ー………って、そうだ、オレは怒ってるんだからな! 許さねぇぞ!」
 はっと気づいて、ディーノは思い切り渋面を作ってみせた。ついでにぷいとそっぽも向く。
 正直にいえばそれほど怒ってはいない。明確な約束を取り付けていたわけではないし、ディーノ自身には恩師への義理があるが雲雀はそうではないのだ。病人を望まないやり方での戦いに巻き込みたいとは思わない。だがあのように振り回されては恩師や弟弟子への自分の立場がなかったのも事実だし、これから先のことを考えると、戦いたいときだけ戦う、というスタンスではとても通用しないだろう。これは、いつもいつでも戦いたい子だとばかり思っていた、自分の落ち度である。きちんと叱ってやるのも家庭教師としての役目だろう。ああでも、こんなことして、このまだまだ幼い子の心が傷ついたりしないといいのだけれど。
「ふうん、怒ってるんだ」
 小さく頷いて、雲雀は何とか緩む唇を隠そうとした。全くだったらさっさと会いに来ればいいものを。別に今度の戦いは戦いとして、またやればいいのだし、というかやりたいしこちらには何の異論もないというのに。本当に素直じゃないんだから。
「ああ………まあ。怒ってるぜ。うん。でもその、恭弥が素直に謝るっていうなら許さないでもない、けど」
「何それ。怒りなよ」
 つんと唇を尖らす様子に、ディーノは思わず謝りそうになった。きっとこの子はずっと自分を責めていたのだ。かわいそうに!
「いや大丈夫だ。気にすんな」
「何いってるの。怒りなっていってる…」
群れに辟易しながら、雲雀はディーノの前に立って彼を睨みつけてみせる。いつもなら雲雀が通りかかれば、数分後には生徒らはけして廊下は走らずだが迅速に、群れではないと主張するように互いに距離をとったり、その場から立ち去ったりするものなのに、今は群れたまま遠巻きにちらちらと視線を向けてきている。正直苛立たしいが、そんな理由で女子を咬み殺すわけにもいかない。とはいえ煩い。さっきから彼女たちは黄色い声で「危ないディーノ先生」とか「ディーノ先生逃げて」とか、ディーノ先生………?
「あなた、だからこんなとこで何してるの」
「ん? だからディーノ先生だろ? 英語の臨時教師だよ恭弥くん」
 ムカつく。
「嘘だよ」
「嘘じゃねーよ、おまえしらねーだろ、オレこれでもぺらっぺらだぜ、英語」
「そこじゃない。臨時教師が入って、僕に挨拶に来ない筈がない」
 新たに職員を採用する場合いつも事前に連絡があったし、自己紹介を兼ねて初日には頭を下げに来た。当日までに委員の方で行った素行やその他に関する調査報告がある習わしで、それを読んで雲雀は咬み殺すなり認めるなり。
「えー………ほらそこはさ、校長先生に恭弥くんとは親しくしているので、驚かせたいし黙っててくださいと説明を………」
「なにそれ」
「いやだって知ったらお前絶対怒るじゃねーか」
「怒らないよ」
 つまりは、すぐ時間がないだとか、予定があるだとかいいだす人が一日学校にいるのだ。いくらでも戦い放題である。どうして怒る筈があろう。まあ、独断で報告を怠ったデブは咬み殺す必要があるが。
 だがそれで、今日は何やら見慣れない扮装をしているわけか。たまにしているのを見かけるフレームレスのそれとは違う、黒縁の大きな眼鏡や、教師というよりは学生のように見えるベストやネクタイは、確かにいつもより真面目そうにみせる手伝いをしているようだ。ただいるだけで無駄にきらきらしている人なのだから、教師をするにあたって服装だけでもきちんとしようという姿勢は評価しなくもない。ちょっと色づかいは派手だけれど、ちゃんとしているじゃないか、と下から上まで雲雀はディーノの服装を矯めつ眇めつして、そして固まった。
「そっか。………そうか、うんそうだな。オレ、頑張るな」
 こんないい子に対して、自分はなんて馬鹿な画策をしていたのだろう。ディーノは泣きそうな気分で頷いた。短い間のことだからと、適当にやるべきことだけこなせばいいなどとと考えていた自分が恥ずかしい。戦いも重要だが、それはそれだ。この子どもの愛する学校の生徒たちの学力をあげるため、全力を尽くさなくちゃいけない。
「あなた、それどうしたの?」
 だが顔を上げると、けなげな子どもは目を丸くしていた。
「………それ? だからほら、先生っぽい格好だろ?」
「ぽくない。そうじゃなくて…」
 見間違いかと思ったがそうじゃなかった。派手なシャツの襟口から、大き目の絆創膏が覗いてみえる。
「………恭弥?」
 はっと、雲雀は我に返る。息をしていることが自分でも不思議だった。頭がぐらぐらする。
「どうした? 大丈夫か、恭弥」
「………………ばか。ばかうま」
 どう考えてもそれは自分がつけた傷ではない。ディーノが日本に来てから、戦おうと強請って、それとも同じチームに入ることを匂わして、何度となく手合わせをした。とても楽しくて、でもここ最近の戦いで我ながら力をつけたと思われるのに、先生ぶってさっぱり本気で戦おうとしないディーノに苛立ったりした。だけれど、そんな場所に傷をつけた記憶は、雲雀にはない。急所に近い場所だ。そんなところに攻撃を与えられたなら、嬉しくて忘れられる筈もないのだ。
「それ」
「ん?」
「それ、僕がつけた奴じゃないよね?」
 トンファーでぐいぐいとつついてやる。信じられない。何が先生だ。どこのチームだか知らないが、こんなことを許すなんて風紀が乱れる。何をうかうかと怪我などしてるのだこのばか。
「そんなとこに僕つけたりしてない。信じられない………あなた、何考えてるの」
「へ、いやほら恭弥」
 今さら気づいたとでもいうようにディーノが片手で首筋を隠そうとする。その手を雲雀が掴もうとするのを、半ば呆然としながら女子生徒たちは見守った。そして一つの結論に至る。
 痴話喧嘩だ。
 その理解に至るまで要した時間は厳密にいえば各々差があったが、それでも細波のように囁きが交わされ、驚きが共有されるまではほんの数分といったところだったろうか。
 あの風紀委員長を先生が名前で呼んだことも、彼が現れたときとんでもなく嬉しそうにしたことも驚きだったが、とにかくあのキスマークは雲雀恭弥がつけたものではないらしい。そんなこと、さっぱりまったく疑ってもみなかったのだが、とにかくそうらしいのである。そしてどうやら彼らは喧嘩をしていたらしい。少なくともあの温和そうな先生が「怒っているんだからな」とはっきり宣言していた。これはきっと。
 浮気。
 いや違う。より厳密にいうなら当て馬という奴だ。先程委員長もそんなことをいっていた気がする。これも漫画やドラマなどでよく見る展開だ。喧嘩したり行き違いがあって、恋人への当てつけで他の人と親しい振りをしてみせる。恋の手練手管の一つであろう。そう理解していたし、だからこそそのありふれた展開に退屈さを感じたことはあるにせよ、大してひどい所業であるとは思っていなかった。
 だが現実の状況として、目の前でドラマが繰り広げられると、初めてわかることもある。
(だめ)
(だめだよ、先生それは)
(だって、ヒバリさん、が)
「恭弥?」
 今にも殴りかかろうとしていた腕が力なく宙に浮いて、ディーノは思わず問いかけた。どうしたことか。
 雲雀が何を怒っているのかはわかっている。いつだって自分と戦いたがる弟子のことだ。首筋の絆創膏を見て、また下らない怪我をしたのだとそう考えたのだろう。実際この学校のスリッパは滑りやすいし。それにこの子どもはなんだかんだでとても心配性で、三度のハンバーグより戦うことが好きな癖に、あなたの部下が傍にいないと戦わないだとか言い出す始末なのだ。
 だがこの絆創膏で隠しているものを声に出して気づかせてやるわけにはいかない。キャバッローネの誇りともいうべきこの印は、何も知らない学生にはどこからどう見ても刺青に見えるだろうし、日本という国は公衆浴場に入るにも規制がかかる程、刺青に厳しい国である。この仕事を失う訳にはいかないのだ。
(でも、恭弥が)
 そんなことはわかりきっているのに、それでもディーノは迷った。
((泣きそうな顔、してる))
「………恭弥」
「なに、痛いの?」
 唇を尖らしたまま、慈愛深いナイチンゲールが細い指で首筋をなぞる。何ていい子だろう。
「恭弥、耳かせ」
「何?」
「だから、耳かせって」
「ヤダ」
「ヤダじゃねー。ほらいいこにしろ」
(うわぁ)
(最低だ、先生)
 どう考えたって、雲雀が素直にいうことを聞く筈がないだろう。そう心の中で突っ込む少女たちを尻目に、鬼の風紀委員長は「仕方ないね」と髪をかきあげて、無造作にそのまんまるい頭を最低教師に近づけた。驚きである。周りに人がいることがわかっているのだろうか。いや、いることがわかっていての、こそこそと隠しているつもりの所業であることなぞ、彼女たちにはわかる筈もない。一瞬で株価が大暴落した浮気者の先生は、こほんとひとつ咳払いをすると、いそいそと男子中学生の耳に唇を近づけた。
「だから、な? きょうや」
「ひぁ! なに、くすぐったい」
「え、や、すまん! そうじゃなくてだな、その」
「何、はっきりしなよ」
「刺青………みたいにみえるだろ。その、オレの、キャバッローネのあれは」
「………………」
 ぶわ、と顔が赤くなったのが雲雀にはわかった。恥ずかしい。何てことだろう。今まで何度となく目にして、風紀が乱れるよと、それを理由にして薄着になることを窘めたこともあった癖に、さっぱりまったく思いつきもしなかった。ああでも
「べ、別に! 心配してたとかじゃないんだからね!!」
 誤解されてはかなわない。そう思って大きな声で宣言して、だがそこでこの狭い、そして人で溢れた廊下で自分の声が思いきり響いていたことを雲雀は自覚した。跳ね馬だけじゃなく、未だに群れたままでいたらしい女子生徒たちまで、目を丸くしてこちらを見ている。
「きょうやぁ…」
「あなたばかなにして」
「うんうん馬鹿でいいから。ほらだからわかったろ、恭弥が心配するようなことはねーって」
「だから心配してないっていってるだろ!」
 誤解である。思わず雲雀は抱きついてきたディーノを殴った。ただ単にディーノは他の雑魚どもなんて相手にせずに自分とずっと戦っていればいいと思うだけだ。怪我がどうだとかそんな心配なんてしていない。そんなこと、いってやるつもりはない。それは自分と戦う前に怪我などして欲しくないとは思うけれどそれだけである。
「そっかー。うん、心配させないように頑張るぜ」
 駄目だ。
 へらりと笑った英語教師の顔を見たとき雲雀は悟った。この男に何をいっても無駄である。
「え、や、ちょ、きょうやぁ?」
「大人しくしてなよ」
 ぐいと首根っこを引っ張る。部下がいないといえど体力で雲雀に押し負ける筈もないのに、うわぁ、と何やら楽しげに悲鳴をあげてみせるその態度がムカつくというのに。
「ダメだって恭弥、オレ仕事が」
「知らない」
「いやおまえ」
「知らないよ。………日本には嘘から出たまことって諺があってね」
「………………恭弥?」
「だから、身体じゅう絆創膏が必要なくらい、僕がぐちゃぐちゃにしてあげるよ………センセイ?」
 手をひいてやると、すっとディーノが青ざめるのを見て雲雀は溜飲を下げる。そうだ、これでいいのだ。
 バトルとかウオッチとか知ったことか。この人は雲雀の先生なのだから、いつだって必要な時に必要なだけ、戦ってくれなくてはいけないのだ。
「あ、の。ヒバリさん!」
(ん?)
 甲高い声で呼びかけられて、雲雀は思わず振り返った。いつもなら無視するところだけれど、つい反応してしまったのは、彼女たちの存在をさっぱり忘れきっていて少し驚いたからかもしれないし、手を繋いだら青い顔のまま大人しくなった男が、視線をやったからかもしれない。
 こんな風に女子生徒が話しかけてくるときは、いつもなら大体、好きですとか憧れていますとかそんなわけのわからないことを唐突にいいだしたりするのだ。殆ど話をしたこともない相手なのに。できれば今は相手にしたくない。雲雀は当惑して、だが彼女たちが口にしたのは予想とは全く違うことだった。
「あの、私、応援してます!」
「私も!!」
「私もです、頑張ってください!」
「………………え?」
 応援って何を応援。
 だが視線を落として雲雀は気づいた。この男を咬み殺せという応援だ。他に何がある。
 そんな、とかちょっと待て恭弥だとか何やらうるさい男は無視して、雲雀は薄く微笑んだ。戦えない人間には基本的に興味がない雲雀だが、それでも単純に、暖かい言葉をかけられれば嬉しくも思う。この仁義を知らないくせに先生ぶった男と雲雀とではどちらが正しいかなど、並盛の生徒なら当然わかるということなのだろう。今回は勘違いだったかもしれないが、ちょっと目を離せば草食動物のためだとか馬鹿なことをいって、この人は、軽々しくどこぞの馬の骨と戦わないとも限らない。油断は禁物である。
「ありがとう。まかせておきなよ」
 頷いてみせると、彼女たちは口々に悲鳴をあげた。甲高い声は耳に心地よいとはいいがたいが、その程度のことで、狭量な態度をみせるのは間違っている。もしかしたらこの子たちも、しょっちゅう転んではいらない怪我をしてくるこのへなちょこにいらいらさせられていたのかもしれない。並盛の生徒が望むなら、叶えてやるのもやぶさかではない。時計が戦闘開始を告げるまで、応接室に閉じ込めておけばいいのだ、そう雲雀は決心をした。

「すごかったね………」
 台風のように二人去っていくのを見守ったあと、ぽつりと漏らしたのは誰だったか。女生徒たちは顔を見合せながら、思わず頷きあった。すごかった、そうとしかいいようがない。とにかくあの絆創膏の下にあるのはキスマークかと思われたが、どうやら誤解らしく、だがこれから誤解ではなくなるらしい。嘘から出たまこと。現文のハゲが昨日だかテストに出るぞといっていた記憶は今も新しい。それが事実なら、並盛の女生徒たちは、このような勉学なぞ全く手につかないであろう状況でも………英語に限らずそれどころではない状況でも、とりあえず五点は保障されたというところだろうか。嘘から出たまこと。これから風紀委員長がディーノ先生をぐちゃぐちゃにする、という意味だ。
 どうしようすごくみたい。
「ああ、でも漫画とかも間違ってないんだね」
 ぽつりと漏らした一言で、少女たちの夢想を中断させた少女は、一同の注目が浴びせられていることに気づいて困ったように微笑んだ。
「ほら、ああいう話の中でも、そういうことをするのは学校一かっこいい、っていわれている人じゃない?」
((………ああ))
 そういわれれば確かにそうだ。今頃ディーノ先生をぐちゃぐちゃにしているであろう人は、文句なしに学校一のイケメンの筆頭である。恋愛事には興味のない人なのだろうと、憧れていた女子の多くが告白できずにいたのだけれど、今さらそうではないと判明したところで、自体は手遅れらしいのだ。
(………………ディーノ先生かぁ)
 相手が男だろうと教師だろうと、とりあえずあのきらきらぶりには勝てる気がしない。少女たちは顔を見あわせつつ、小さく溜息をついた。
 
 とりあえず、夢物語だとばかり思いつつ楽しんでいた少女漫画にも、一抹の真実が含まれると判明したせいで、風紀委員たちの取り締まりにもかかわらず、学校に漫画を持ちこむ生徒が大幅に増えたらしい。とはいえ、特に回覧されているのは少女漫画といってもある種の特殊嗜好に沿った漫画であるそうだ。聞くところによると、憧れの女の子の所有する本をうっかり覗き見してしまった次期マフィアのボスと目されている少年は、彼女の読書傾向を受け入れるまで数カ月を要したそうである。






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