その夜、オレは爽やかな気分で目覚めた。かなりの面積を取っている自室は、地下とはいえ開放感がある。日没になると自動で付くようにセットされているライトが既に煌々と灯っていた。隣で眠っているはずの恋人の姿は既になく、オレは慌てて着替えると、階上に上がった。
「おはよう」
「おはようボス! 随分今日は遅いじゃねぇか」
「恭弥と遊びすぎなんじゃねぇか?」
「……おまえらなあ」
 口々に気のいい部下達が声をかけてくる。イワンもマイケルも他の皆も、既に忙しなく立ち働いていて、申し訳ない気分になった。早足で廊下を歩く。
 うちは二交代制をとっていて、ちょうどこの時間は交代のために地下シェルターで働いていた奴らが上に上がってくる。だから廊下はひどく込み合っていて、だがオレが姿を現すと、軽口を叩きながらも一斉に道が開いた。気を使うことはないのに、とも思うが今日は正直ありがたい。
「おう。遅かったなボス」
「……わり。あ、何だよ恭弥。おいてくなよなー」
「おはよう。……一応起こそうとはしたよ」
 ならばトンファーで沈められなかっただけ、僥倖というべきなのかもしれない。オレは謝罪の意をこめて丁寧に挨拶のキスを返すと、机についた。即座にこれでもか、と書類が積み上げられる。
「日勤の奴らからの確認事項が……あ、その前に、おい! パオロ!!」
 外に控えていた部下数人が中に入ってくる。その中の、やたら背の高い男が一人、前に進み出た。
「ちょうど一年前から働いてもらってる。サルデーニャの出で」
「ああ、諜報部の奴だよな。もう慣れたか?」
「はい。ありがとうございます、ボス」
「覚悟は出来てるんだな?」
「……はい」
 男は大きく頷くと、軽く身を屈めた。下手すると二百ぐらいあるかもしれない。オレはその猪首の頚動脈に唇を寄せた。
「これからよろしくな、パオロ」
 温かな甘露を存分に味わうと、オレはそう囁いた。男は少し細い声で礼をいい、ふらついた体を周りの人間が抱きかかえる。
「おめでとう!」
「おめでとう! パオロ」
「おめでとうボス!」
「ああ、サンキュな」
 口々に叫ぶと、彼をそのまま別室に運んでいく。他の者が皆で血を最後まで吸い、彼が真のファミリーになるまで世話をするのだ。
「ロマ、おまえはいかないでいいのか?」
「ああ、俺は先週戴いたしな」
「駄目だよ、栄養とらないと体に悪いよ」
 書類に顔を埋めていた恭弥が、真面目な顔で話に加わる。独自の栄養学を信じてるらしい小悪魔の台詞に、吸血鬼二人で苦笑する。そう単純なカロリー的な話でもないのだ。だが開発を進めている人工血液ばかりでは、力が湧いてこないのも確かだ。オレは立場柄、優先的に血をもらっていて、昔に比べれば体調もいい。だから恭弥としたら、ほら見たことかと思うらしいのだ。
「……まあ、おまえには元気でいてもらわねぇと困るしさ、飲んだほうがいいぞ」
「おう。じゃあ、あんたの仕事に切りがついたらな」
「…………了解」
「頑張ってくれ。ああ、そうだボス。さっきのパオロでな、うちのファミリーはちょうど五千人になる」
「そうか」
「あんたのおかげだ。……ありがとう」
「ばぁか。そうじゃねーだろ」
 オレはこの部下にさっさと食事を取らせるために、果敢にも分厚い書類の束を受け取った。その拍子に、腕にに描かれた絵が目に入る。青白い炎、有刺鉄線、飛翔する黒馬。そう、あの夜からどれくらい月日がたったものだろう。
 年をとらない、吸血鬼を主体としたファミリー。この世界で秘密を守ることは容易ではなく、それでも何とかやってきた。刺青はオレの腕に相変わらずある。何度この身を棺桶に横たえても消えることはなかった。
 吸血鬼は通常、日中は棺桶の中で過ごすとされる。そうでなくとも、故郷の墓土、そんなもので肉体の回復は可能だ。いや回復というよりも、リセット、といったほうがより真実に近いかもしれない。傷は跡形もなく消え、どんなに年月を重ねても老いは訪れない。様々な弱点を抱えながらも、我々が不死者と呼ばれる所以だ。
 この刺青が腕に現れた後、オレは何があっても寝まいとした。無駄な努力だ、今から思えば。だがオレはどうしても眠るわけにはいかなかった。ひどく飢え、魔力も落ちていたけれどオレはまる十日間、陽の入らない部屋に籠もって一睡もしなかった。だが、結局は力尽き、回復した躰とは裏腹に、暗澹とした気持ちで目覚めた時、いまだ自分の腕にキャバッローネの証があるのを見てどれほど驚愕したことか。あなたがそういう人だということはわかっていたよ、と恭弥はいった。泣きながら。殴ってでも寝かそうとしてきていた癖、馬鹿みたいに泣いて、そして笑った。オレもだ。今ではもう判っている。オレの覚悟は、寝ていても起きていても、どんな瞬間でも消えることはない。
「……ボス?」
「あ、……わりぃ、すぐ終わらすな」
「終わったら僕と戦うんだよ」
 当然のように恭弥が口を挟む。こっちもそうそう暇ではないわけだが。
「おっまえなあ。ちょっとは労ろうって気持ちはないのか」
「誰が? あなたはもう馬鹿みたいに健康なんだからね、いつだって僕と戦ってるべきなんだよ」
 つん、と横を向く。まったくどんなナイチンゲールだ。
「あーもーしょうがねぇな」
「ボス、そういや、ムンミアファミリーの件なんだがな」
 スケジュールが急に立て込んだ上司のことは鑑みる様子もなく、ロマーリオが声をかける。まあ仕方がない。これも宿命だ。
「何だ? 諜報部がなかなか入り込めねぇって、あれか?」
「ああ、あそこのセキュリティは厳しいからなあ。だが今度幹部になったばかりの奴が随分遊び人らしくてな、そこを突けば何とかなるんじゃねぇかと思うんだが」
「女か」
「ああ、当てが一人いる。前からうちのファミリーに入りたいっていっててな、腕もいいし、なかなかの美人だ」
「だめだよ」
 気づけば既にトンファーが取り出されている。早い。っていうかオレはまだ何も悪いことはいってないだろう。
「この人の健康に悪い。なまっちろい女の血なんて冗談じゃないよ」
「いやだがな恭弥、ちゃんとしたプロの殺し屋だぞ。……美人だし」
 素っ惚けた声でロマーリオが答える。いやおまえわかってるだろう、それ。
「知らないよ。ちゃんと鍛えた男の血であるべきだよ」
「…………そうか」
「ああまあそうだよな、恭弥が気をつけてくれるから安心だぜ!」
 噴出しそうになっている部下を庇って、恭弥を抱きしめる。いや正直いえば、オレの表情を見られるのもやばいというのもあった。緩んでいるのを隠せそうもない。
「あなたもいい年した大人なんだからね、健康管理くらい自分で出来なくちゃ駄目だよ」
「そうだなー。ロマ、うちはやっぱりな、男同士で気楽に、が信条のファミリーってことで」
「フェミニスト団体がきいたら怒りそうなファミリーだな」
 それは困った。訴えられてもオレは法廷にはいけそうにもない。
「まあまだなかなか、男女同権のマフィアなんてねぇだろ」
「ボスの健康管理が一番重要だよ」
「そうだな、オレの健康が一番。……ロマ、スパイにはフリーの人間を雇ってくれ。金はいくら積んでも構わない」
「わかった。……ボス」
「ん?」
「ちょっと手配してくるから、仕事を進めててくれ。ついでに、食事も取ってくる」
 後ろ手に手を振ると、ロマーリオはさっさか部屋を出て行った。あの野郎。オレはすっかり宿題は無視することに決めて、腕の中の小鳥の髪を梳いた。
「なあ、恭弥」
「なに」
 間髪いれずに返答してきた唇は、すっかり尖っている。
「……妬いた?」
「誰が」
 ここまで嘘をつけないというのも、むしろ才能だ。赤くなった頬を撫でてやると、ちろちろと視線が泳いだ。
「別にあなたが飲みたいなら飲めば? 僕は止めないよ」
「へえ? でもオレはそんなことする気はないぜ?」
「どうだか。あなたは昔から、若い女の血ばかり吸いたがってたじゃない」
 そういういい方はどうかと思う。だが拗ねた口調はたいそう可愛らしかったので、オレはついついキスを落とした。
「まあ昔はな? でも今は現状に満足してるし」
「そう?」
「おう、恭弥のおかげだぜ。それに、オレは恭弥と手合わせしなきゃいけねーからな。体調は万全にしとかねぇと負けちまう」
「そう。そうだよ、あなたは僕と戦わなくちゃいけないんだからね」
 まだ負けてやるつもりはないわけだが、そういってやると目に見えて機嫌がよくなった。この焼餅やきめ。いってやりたいけど、これ以上怒らすわけにはいかない。
 本当に今では、うら若き女性の血を吸いたいなどと思うこともなくなった。そりゃ、山のような大男に噛み付いてるときには、ちょっとばかり微妙な心持になるときもある。だがそれも皆、かわいいオレの部下なのだ。それに、オレ自身が彼に対して誠実でいられること、それでも彼が時々妬いてくれること。それだけのことが、どれだけオレを幸福にさせてくれるか。
 ただ首筋に牙を当てるだけの食事に、部下がフルコース並みの時間をかけてくれることを願いつつ、オレは恋人の体を執務机の上に横たえた。







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