また翌日の夜、オレはひどい空腹で目覚めた。 あの後オレはマイケルをウインブルドンまで送った。そう男の名はマイケルという。飛行中いろいろ話をしたのだが、本当にプロのテニスプレイヤーで、だがここ数年伸び悩んでいるらしい。今季で引退する心積もりで、だが本音はどうしても踏ん切りがつかないらしかった。真面目で、気のいい奴だ。オレは簡単に、彼が抱えている「老い」という問題から開放してやれる。だが、日が沈むまで活動できないのに、スポーツ選手としてどうして活躍できようか。いわないでもわかっていたのだろう、イタリアからイギリスまでの飛行の間、マイケルはヴァンパイアになることについては触れなかった。
 そうしてオレは長大な距離を往復してかなりの魔力を消耗し、そのあとはただただ眠った。狩りに出る時間の余裕なぞない。温かいベッドに潜り込んだ時は今にも日が昇ろうとしていた。まあ二時間どころじゃなくお待たせしたという理由もある。
 そんなわけでオレは空腹だった。有難いことに一晩寝れば傷も何も回復するのが、吸血鬼というものだ。だが腹具合だけはどうしようもない。だいたい恭弥の気持ちを考えれば、お断りするべきじゃなかったのだ。だからソファの上にまた男の存在を見つけたとき、オレはもう有難く戴いちまうかと思った。だがこれまでと違い、男は意識があった。真面目な顔をして座っている髭面の中年男性。オレは取り敢えず声をかけた。
「おい、あんた名前は?」
「坊ちゃん! ああ変わんねーな、本当に……」
「ぼぼ坊ちゃん!?」
 突然咽び泣く男に狼狽える。この年になって、坊ちゃんなどと呼ばれる謂われはない。そりゃまだ人間の、幼い子どもの頃はそう呼ばれていたころもあったが……そこまで考えて気づいた。どことなく見覚えのある顔だ。
「……おまえ……ロマか?」
「久しぶりだな。また会えるとは思ってなかったぜ」
 眉を顰めて笑う癖は、確かに懐かしい男のものだった。だが記憶にある顔よりはずっと老けている。父親の部下だったこの男は確か自分とそう変わらない歳だった筈で、彼と、いや人間と自分の上に平等に流れなかった時間が思い起こされた。
「……どうして」
「そこの坊主に聞いてな、ここまで連れてきてもらったんだ。あ、ありがとな」
 恭弥はロマーリオの前に紅茶のカップを置くと、オレの隣に座った。自分でも砂糖たっぷりのミルクティーをゆっくりと飲む。当然のようにオレの前にはカップは置かれず、ロマーリオはそれに何をいうでもなかった。
「そうか」
「ああ」
「……親父は? どうしてる」
「……亡くなった。一昨年のことだ」
「そうか……」
 元々体の弱い人だった。年齢的にも、もう不思議ではない歳だ。なのにオレはひどく衝撃を受けて、オレの中で、彼らはオレと同じように時間が止まっていたのを知った。オレがシマを飛び出したあの頃のまま。
「なあ、また戻ってきちゃくれねぇか」
「何いって……できるわけねぇだろ、そんなの」
「あんたが何で消えたのか知らなかったからな、戻ってくるのをずっと待ってた。俺らも……ボスもだ」
「……」
「帰ってあげたらいいじゃない」
「恭弥……そんな簡単なことじゃねぇよ。今更」
「帰りたいんでしょ」
 こともなげに恭弥はいう。ああ帰りたい。懐かしいオレの故郷。だがあの場所にいる資格はオレにはないのだ。オレは誰かの犠牲なしに生きていくことが出来ないから。
「戻ってきてくれ。ボスが亡くなってから、うちのシマは段々荒れてきている。どうしても、他のファミリーに舐められてな」
「ロマーリオ」
「俺じゃ駄目なんだ。一応今は俺がボスってことになっちゃいるがな、キャバッローネの正統後継者じゃないとことあるごとに言いがかりを付けられる」
「……」
「それに、ボスにふさわしいのはあんただ。みんなわかってる。うちのシマを守れるのはあんただけだって」
 いきなり白い炎が立ち上がって、オレの腕を取り囲む。躍り上がるような火の勢い、その癖熱さは感じなかった。オレはどこか冷静に、慌てたように立ち上がるロマーリオと恭弥を見ていた。そして、炎が消えた時、そこには見覚えのある刺青があった。
「坊ちゃん……いや……ボス」
「……ロマ」
 キャバッローネの証。父の腕にも同じものがあった。だがこれはまやかしなのだ。明日になれば消えてしまうのだと、いわねばならないのはわかっていた。だが口を開いても、声を発することが出来なかった。青白い炎、有刺鉄線、飛翔する黒馬。幼い頃、父のそれを憧れと誇りを以って眺めていたのを覚えている。
 かつてオレは、あの場所を守るために永遠に離れる決心をした。例え父が死に、知っている人間全てが死に絶えても、けしてあの地に足を踏み入れることはしないと。安っぽいヒロイズム。だが他にどうしようがあったろう? もう一度刻まれた絵を眺める。そうだ、オレは本当はずっと。
「ディーノ」
 柔らかな指が頬を辿って、オレはやっと自分が泣いていることに気づいた。子どもみたいだ。慌てて拭おうとすると、存外に加減のない力で押しとどめられる。恭弥はそのまましげしげと捕まえたオレの腕を眺めると、ちょうど黒馬の頭のあたりに唇を寄せた。
「ディーノ」
「……ああ。かっこわりーな、オレ」
「泣いてる」
 オレは余程変な顔をしていたのだろう。恭弥は小さく笑うと、もう一度頬を拭ってくれた。そのまま耳元に顔を近づける。まるで秘密を囁くように。オレに答えを教えてくれるように。
「ね。帰りたいんでしょ?」









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