「なあ恭弥、飲ませんのはいいんだけどよ、タダってわけにはいかねぇな。オレはおまえの先生だからな」
 平然とした顔を装って、オレはチューハイを少し飲んだ。案の定恭弥は不満そうに唇の端をゆがめてみせる。
「生意気だね」
「おまえがな。どうする?」
「何。戦って勝てばいいの?」
 生意気盛りの我が弟子は目をきらきらさせて、トンファーをちらつかせた。ああまったく、彼を躾けるのは、育てるのは、手懐けるのは、なんと大仕事であることか。
「それじゃあっという間に酒が回っちまうじゃねぇか。イタリア語の勉強だ。オレがいった言葉を、きちんと憶えて繰り返していえたら、飲んでもいい」
 さりげなく提案しながら、自分でもわくわくと高揚しているのを感じていた。だってこれではまるで、普通の先生と生徒みたいではないか。そりゃもちろん戦いの技能を磨くことは重要で、目前に迫る戦いのためだけではなく、彼が生きるために、自由に羽ばたくために、オレが教えることで無駄になることは一つもない筈だ。だけれども、もっと平和で時間があったなら、オレはこの生意気な弟子に教えてやりたいことが他にもいっぱいあった。
「必要ないよ、そんなの」
「そんなことねぇって。ボンゴレの守護者になったら、絶対に必要になる。わかるだろ?」
「そんなものになるつもりはない」
 む、と唇を尖らせて恭弥がいう。聞き分けのない子なのだ。だが、プラスチックのカップを爪で弾きながらの台詞では、何の迫力もない。オレは思わず微笑んだ。大体マフィアの家に生まれたオレがあれだけ嫌だとごねて悩んでみせたのに、なんの関係もない日本人の子どもが簡単に受け入れられる筈もないのだ。
「じゃあほらあれだ。何だって知っといて損はねぇ。いつ、ああ今イタリア語を喋りたい、ってことになるかも知れねぇだろ? ほら、いきなりすっげー美人のイタリア人に会って口説きたくなるとか。いっとくけど、イタリアは美人が多いぜー」
「とんだ自惚れ屋だね」
「そういうなって」
 薄い唇の両端が緩むのを見て、オレは慌てた。どうしたらこのままの表情で、オレの前にいてくれるんだろう? 自惚れだといわれればそれまでで、でもどこの国の男だって、殆ど大方は自分の国の女性が一番美しいと思っているものではないだろうか。そして実際、オレのシマに住まう女性は皆美しく、いや容姿は各々の好みやその時代の風潮等があるから何ともいえないが、その心根が美しくやさしく明るく大らかな方々ばかりで、こんな恥ずべき稼業にあるオレに対しても、寛大に好意的に接してくれる。いくら感謝してもしきれないとはこのことだ。
「嘘。悪くないよ」
「………………え」
 悪くない、そう恭弥に評価されるのがどういうことか、オレは知ってる。問い返そうとして、その澄んだ黒い瞳に釘付けになった。ああ、我がシマの女性は皆おしなべて美しい。それは本当だ。彼女たちの誰も、ここまで澄んだ瞳も、艶やかな黒髪も、陶器のように滑らかな肌も持っていなかったけれど、それでも。
「何をいえばいいの?」
「あ、ああ」
 目の前にプラスチックのカップがずい、と押し出されて、そしてやっと我に返った。そうだ。
「ほら」
「ああ。そうだな。えー…Un bicchiere di crodino,per favore.クロディーノを一杯ください、って意味だ」
「うん、びきえれ? …く、ろでぃーの?」
 すっごく好意的に、注意深く耳を澄まさなければ聞き取れないだろうと思われるほどに、とぎれとぎれに母国語が紡がれ、オレはそれでも大きく頷いた。どう見ても真逆の教育法を信ずる家庭教師に鍛えられ、そのことに心の底から感謝しているにも関わらず、オレは褒めて伸ばす以外の生徒との対し方を選択するつもりは端からなかった。だって、こちらの要望を呑んで、このかわいらしい弟子の口からイタリア語が発せられた、というだけでも素晴らしい進歩である。
「もう一回いって」
 こちらも繰り返してから促せば、素直にもう一度恭弥は口にした。絶対音感だとかの持ち主ならば、多少は進歩していると評価したのかもしれないような覚束ない発音だったが、オレはカップに数センチ分ほどカクテルを………ノンアルコールのカクテルを注いだ。む、と唇を曲げて、酒豪は一気にそれを喉に流し込んだ。
「けち」
「むしろ寛大さを表彰されてもいいと思うぜ? どうだ、うまかった? Ti piacce il crodino? クロディーノは好きか? って意味だ。はい、ならSi、だ。Mi piace il crodino」
「シ。ピアーチェ イル ク………………デ、ィーノ」
「………」
 オレは思わず目を見開いて、母語を紡ぐその唇を見守り、美しい音に耳を澄ました。ああ、なんということだろう。日本語ならばきっと「悪くない」とそういわれるだけだったはずなのに。こういえと促したときは、胸を張っていうけれども他意は全くなかった。取りあえずは旅行や買い物などで必要とされるような、簡単で初歩的な言い回しを教えてやるつもりだったのだ。
 だが件の酒の名前、いや酒ではない飲み物の名前の内の、前の二音を聞き飛ばしてしまえば、そしてそれは恭弥が切れ切れに覚束なく発音するせいでいっそう容易であるのだが、まるで、そうまるで、口にしているのはオレを慕って懐いている弟子で、オレたちは仲睦まじい師弟のようだった。そう考えただけで心臓が鼓動を早め、小瓶を掴むべき右手が小刻みに震えているのが自分でもわかった。本当はこの弟子は、名前でだって呼んでくれない生意気なじゃじゃ馬だっていうのに! ああ何という歓びか。
「もう一回」
「もう一回?」
 恭弥はさっきよりも少しばかり巧みにオレを酔わせる言葉を口にした。心の準備はできていた筈なのにオレは大きく息を呑んで、それから吐き出す。その時にはもう、悪賢い企みはオレの頭にあった。まっとうな堅気の人間なら、思いつくだけで自己嫌悪で立ち上がれなそうなしろものだ。
「よし、じゃあ次のだぜ。ちょっと難しいかもなあ」
「できるよ」
 恭弥は自信満々で頷いて、ああ、良心が疼かなかったといったら嘘になる。だが後ろ暗い稼業に従事するオレは、もともと良心なぞそう多量には持ち合わせていないのだ。それにあまりに誘惑は強かった。鹿爪らしい顔をして母語を口にすれば、恭弥は素直にそれをそのまま繰り返す。オレはそれを利用し、値段や賞味期限を確かめる文章のふりをして、恭弥に「(クロ)ディーノは優しい」と「(クロ)ディーノは頼りになる」おまけに「(クロ)ディーノはかっこいい」と都合三回ずついわせることに成功した。
「うまいぞ。よし、次のは………そうだな」
 思わず緩みそうになる唇を隠すべくオレは咳払いをして、チューハイで口を湿した。僅かばかりの酒精は、その能力を最大限に発揮して、オレの自制心とか冷静さを根こそぎ奪ってくれたのだろうか。思いついた短文はあまりに衝撃的で魅力的で、そしてこんな場でもなければきっと一生我が弟子はいってくれないだろうものだった。
「よし、いいか。次は」
 わくわくしながら次なる短文を口にしようとする。だがそこで、恭弥はカップに残ったクロディーノを呑みきると、大きく欠伸をした。
「もう、いいよ」
「………へ?」
「もういい。これ以上飲んだら酔っぱらっちゃうだろ。明日に響く」
 素晴らしい、含蓄のある御言葉である。適量以上のアルコール分を摂取すれば勿論翌日の行動に支障を来たす怖れがある。知っている。だが知ってはいても、それを理由に酒量を制限する人間をオレはこれまでの人生で見たことがない。襲撃の予定があるなどの切迫した状況ならともかく普段の日々であれば、多くのファミリーが口にするように、ワインは水である。キリストが磔において槍による傷で流されたのは血と水であるのだから、この主張は多分きっと、そうおそらくは大して間違っていない筈である。二択で。
 だがそうはいっても、オレは、欲深いオレは、その主張を受け入れられる筈もなかった。そもそもクロディーノは酒ではない。たぶん、腹がくちくなって眠くなったのを、酒が回ったからだとでも勘違いしているのだろう。かわいい。確かに実にかわいいが、まだ、明日のスケジュールの確認とか一応それなりにやることもある。それにこんな早い時間から眠ってしまったらどうなる。いや、違う。ああ違うとも。正直にいおう。本当はそんなことどうでもいい。仕事なんて! 睡眠なんて!! オレはただ聞きたいだけだ。
「いやいやいや、恭弥、夜はまだこれからだぜ? もうちょっと付き合えよ」
「知らないよ。もう眠い」
 彼が存分に疲れているだろうことは知っていたから、思う存分睡眠をとらせてやりたいと思った、その気持ちも嘘ではない。だがその前に、一言、たった一回でいいから、あの思いついたばかりのイタリア語をいわせたい。それぐらいのわがまま、かまわないではないか?
「ほんとに? もうちょっとは起きてられねぇ?」
「夜だよ」
「夜だけど。まだ宵の口だぜ。子どもじゃねぇんだから」
「ないけど」
 成功である。明らかに目が覚めた、って顔をして恭弥は口を尖らせた。
「な。まだ、勉強は終わってねぇよ。そうだ………これ、味見したくねぇ?」
 今度こそオレは良心の疼きで心臓が止まってしまうべきだ。だが実際にはオレはそんな内心も表に出さずに、如何にも親切そうな笑顔を浮かべて見せた。
「………いいの」
「おお! ちょっとだけな? さっきのより強いから、恭弥にはきついかもしれないけど」
「平気だよ」
「そうか。じゃあほんとにちょっとだけだぞ」
「けちくさいね」
「う………じゃあ、好きなだけ飲んでいいから」
 そういってオレは、カップにチューハイを少し注ぐと、新しい短文をゆっくりと口にした。自分で口にするのは、流石に少し恥ずかしい。しかも、無垢な瞳が、一瞬も見逃すまいと、オレの唇の動きを追っているとなれば。一度やると決めたら、取りあえず完璧を目指すタイプなのだろう。少し逡巡して、それから一つ息を吐くと、同じようにゆっくりと、恭弥は繰り返した。気づけばオレも、一音だって聞き逃すまいと、そのいつもは大体尖がらがってる唇を見詰めていた。
「そうだな、ティ、はちょっと強く、な。あと語尾はあげねぇで」
「あげてないよ」
 いや、あげてる。だがたぶん、発音に自信がないから、無意識に聞き返すようにあげてしまっているのだろう。いい募って機嫌を損ねるのはよろしくないが、オレとしてもここは譲りたくない。
「じゃ、アーモ、はあげねぇで、な? もう一回」
「ねぇ、………で、これそもそもどういう意味なの」
「へ? え、あ! そうだ、うん、もう一杯飲みたいです、って意味だ。な、だからほら、ディーノ、ティ アーモ、っていってくれよ」
「………ボス」
 ばさっと大きな音がして思わず振り向くと、我が右腕が、子どもの頃から世話になっている部下が、呆然とした様子で突っ立っていた。地面には紙皿が二枚、焼きたての肉類とともに落ちていて、ああこれはもう食えないだろう。
「ロマ?」
「ボス。………ボス、あんた、あんた、………中学生に何いって」
「な!! いや、ロマーリオ! 誤解だ、これは違うんだぜ!」
「何が違うの、あなたがいったんだろ、跳ね馬。自分がいった通りにいえば、好きなだけ飲ませてやる、って」
「恭弥! おまそれは、なんか語弊が」
 それではまるで、いやらしいセクハラ親父である。そう突っ込もうとして、だがその前に気づいた。何が違うというのか。
「ワオ、あなた難しい言葉知ってるんだね」
 セクハラの被害者は、手元のカップをあけると愉快そうに笑った。楽しそうで結構なことだがこちらはそれどころではない。
「ボス。………いや、いいんだ。俺はあんたの考えに従う」
「ロマーリオ!」
「あんまり、恭弥に変なことさすんじゃねーぞ…」
 二十は老けたような顔をして、我が右腕は火元へ戻っていった。オレは何とかして止めたい。言い訳をしたい。だがなんといえばいいのか。もしかしたら少し時間を置いて、さりげなく話した方がまだましなのかもしれない。単なる冗談だったんだ、って。ちょっとからかってみただけなんだ。ああ、納得してもらえる予感が全くしない。
 しかしどうすればいい、この、なんともいえない居たたまれなさは? オレは泣きそうな気分になった。オレはあいつを失望させたのだろうか。
 オレの、ファミリーへの気持ちはいつも変わらない。失望させたくない。彼らの、こんなオレをボスにと選んでくれた、その気持ちと信頼にこたえたい。それだけでこの十年、ひたすらオレは頑張ってこれた。だが彼への、ロマーリオへの気持ちはまた、少しばかり比重が違う気がする。だって彼は部下で、右腕で、だがそれ以上に、小さい頃からまるで親代わりを命じられたみたいに、色々世話を焼いてくれた人だ。あの時、子どもだったオレよりもずっと、実力もあって、ファミリーの皆からも信頼されていたのに、オレがボスをやるべきだといってくれた人だ。いまならわかる。悲劇の主人公ぶって故郷を去るよりも、こうやってマフィアのボスなぞやっていく方がずっとずっと大変だったけれども、それでもオレは、あの時のオレは、償いの場を必要としていた。そしてそれ以上にオレを必要としていると思わせてくれる人たちがいたからこそ、何とかオレは踏ん張れたのだ。ああ、なんていって彼に説明すればいいのだろう?
「ねぇ」
「………」
「ねぇ。ディーノ」
「あ? それどころじゃ………いやきょうや、おまえ………」
 思考を振り切って視線をやれば、我が弟子は目元を赤く染め、頬を桜色に染めて婀娜っぽく微笑んでいた。まるでヴィーナスの如き微笑………いやどう考えたって我が弟子の方が美人だけれども。
 ってちょっとまて。微笑? 微笑み? そういえばついさっきも我が弟子は上機嫌で笑っていた気がする。そして我がじゃじゃ馬の弟子はいつだって仏頂面で、思い返せば笑った顔なぞこれまで見た記憶がない。
「ねえ、おもしろい、ね、あなたの部下。気にいったよ」
「え? なんだそれ」
 思わず声が尖がる。だって今のオレはボスの威厳が危機にあってどうしたってぴりぴりしているわけだし、第一、おまえそんなこと、一度だってオレにはいってくれないじゃないか。だが恭弥はどうにも上機嫌で、その名のごとく、小鳥が囀るように笑った。
「中学生が飲酒したからって、あんなに、驚く、なんてね。マフィアって………みんなああなの? 単なる、やくざ者の集団だと思ってたのに、違ったのかな」
「………いや、うん。どうだろうな」
 我がファミリーの評価が、恭弥の中で上昇したらしいことは喜ばしい。だがそれは、正当な評価だとして、の話である。確かにマフィアなんてやくざ者の集団で、どうしようもない奴らばかりで、でもその中で最もどうしようもないボスなんて立場にいる人間からいわせていただくと、皆何かしら理由があってこんな仕事をしていて、本当は気のいい、優しい奴ばかりなのだ。恭弥だって、こうやって一緒に時間を過ごしているのだから、わからない筈はないのである。だけれども、我がファミリーの中で誰か未成年の飲酒を窘めるような人間がいるか、と問われるとオレは首肯し難い。性質の悪い薬物ならばともかく、酒なぞ水か何かだと思って育ってきたような連中ばかりなのだ。だいたいクロディーノは酒じゃないし………とそこまで考えて気づいた。頬を染めた、初めて見た我が弟子の微笑。舌たらずな口調。
「きょうや、おまえ………………飲んでる?」
「なにそれ。あなたがいったんだろー。でぃーの、てぃあーも、っていえば飲んでもいいー、って」
 明らかに教えてやった発音の機微なぞ忘れた態で、我が弟子はカップを開けて見せた。そうだ、確かにいった。だがいつのまにこれほど……並べられたチューハイの缶を数えて戦慄する。オレは一缶開け切ってもいなかったのだから………いや、それを考えても大した酒量ではない。どう見ても。そもそも部下が置いていった数からしてそう多くはないのだ。だが、そうはいっても、恭弥は子どもで、そして、明らかに酔っている。
「おいしいよ、ディーノ」
「いやそれは良かったけどな………………………………………………………てかおまえ、オレの名前知ってたのかよ」
「何それ、あなたが最初に名乗ったんだろ」
「ああうん、そうだな」
 確かに。でも憶えてるとも思っていなかった。だって今まで一度も呼んではくれなかったではないか。
「跳ね馬って、周りには呼ばれてるとも。あとで」
「ああ………そうだな」
 むしろそうだっけ? と聞きたいところなのだが、オレは何とか頷いた。実際誰かが恭弥に教えない限り、跳ね馬なんて呼ばれる筈もないのだ。見るからに馬っぽい顔をしている、というわけでもないと思うし、勝手に思いつくようなあだなでもない。
「だからそう呼んでたけど………あなた、もしかして名前で呼ばれたかったのかな、って」
「ああ是非それで……って、いやなんでそう思った?」
「え? だってあなた、ディーノ、ティアーモっていってっていうから。そう呼んでほしいのかなって」
 心臓が止まるかと思った。不意打ちでいわないでほしい。いや、我が弟子はさっぱりわかってなぞいないのだ。だがそうだからといって、オレが平静でいられるかというと、そうでもない。せめて訂正を試みる。これは酒の話だ、そうだ。
「クロディーノだろ?」
「クロディーノじゃないよ」
「いや、だって、クロディーノの例文だったろ」
「最初はそうだったけど。いったよ、ディーノ愛してるって、いってくれよって。だからそう呼んでほしいのかなって僕は………どうしたの」
「………いや」
 思わずテーブルに突っ伏したオレは何とか返答を返した。恥ずかしい。どうしたってこの真っ赤になってる筈の顔を見られたくない。確かに最初はクロディーノといってた筈なのだけれども、そういわれるとだんだんテンションがあがってしまって最後のあたり自分が何をいっていたかなんてさっぱりもう、記憶にない。だって本音をいえばそんな酒じゃなくてオレに愛してるっていってほしいって………いやまて。
「恭弥。もしかしてイタリア語………話せる?」
「話せないよ」
「あ、そか。そうか」
 ならばさっきのは幻聴だったのだ。日本語でティ アーモっていわれた気がしたけど、いやそんなまさか。
「さっきのは知ってるけど」
「さっきの?」
「さっきの。ティ アーモ」
 今度こそ心臓が止まるかと思った。なんだそれなんだそれなんだそれ。
「おっまえ!! イタリア語知らないんじゃなかったのかよ!」
「知らないよ。挨拶の仕方も知らないし、数だって数えられない。でもさっきのは知ってる」
「なんだよそれ………」
 日本人は奥ゆかしい民族ではなかったのか。外国語を学ぶのならば普通まず挨拶とかなんだとか、簡単で使用頻度の高いものから学んでいくのが普通ではないか。ティ アーモなんて言葉いつ必要とする? オレだって日本語を学び始めの頃は、こんにちはとかありがとうとか遺憾に感じておりますとかそういうのからおぼえた記憶がある。
「だって有名だもの。歌のタイトルにもなってるし。僕はそういうの詳しくないけど、聴いたことあるよ。お昼の時間に放送にかかる校歌は三回までで、あとは好きな曲をかけてもいいって放送部にはいってあるんだ」
 わあ寛大。いやそれは素晴らしいことなのだが、その恭弥の心の広さが、まわりまわってオレの発言にまで影響するなんて、その放送部とやらも予想だにしなかったことだろう。
「ディーノ」
 呼ばれただけで胸を高鳴らしたオレは、イタリア男という国籍をどこぞに返上すべきだ。酒に濡れた黒い瞳。その視線を感じた時、オレはまるで自分を蛇に睨まれた蛙、小鳥に見つかった青虫、クレオパトラが絨毯の間から現れたのを目にした時のカエサルのように感じていた。逃れられられる筈がないではないか?
「え?」
「………ティ アーモ」
「………………お、まえ」
 気軽にいうなとか、大人をからかうんじゃないとか、多分オレがいうべきことは色々あったのだろう。だがオレはただひたすら、その美しい音を紡ぎだす赤い唇を見詰めていた。そして、この胸の内に湧き上がる喜びを。
「あなたがいったんだよ」
「恭弥」
 かすれた声が、呼び掛けて止まった。だってなんといえばいい? 単なる冗談のつもりだったんだ? 嘘をつけ。だって、流石にオレだって気づいてしまった。普通、人は訳もわかってない誰かに冗談で「愛している」なんていわせようとはしない。少なくともこんな子ども、生意気でじゃじゃ馬な男の子の弟子相手に。
「もう一回、いって」
 だが口をついたのはどうしようもない要請で、オレはきっとこの子どもに頭っから咬み殺されたって仕方がない。だが恭弥は思いもかけないことをいわれたかのように目を丸くして、そして次の瞬間には、ああまるで、戦いを前にしたかのような表情を浮かべて見せた。
「だめだよ」
「恭弥」
「礼儀だよ。そういう時はね、いってほしい時は、まず自分からいうものなんだよ」
「……………そうか」
 たぶん鹿爪らしい顔で述べられた道理は、万国共通で、世界中の子どもたちに叩き込まれている理想論なのだろう。キリストなんかもそんなことをいってた気がする。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさいとかなんとか。全くその通り、だけどいって欲しいのがただ一人限定の場合はどうだろう? ああそうだ、きっとそうなのだろう。認めてしまえば簡単なことだった。慈悲深くも、今までマフィアのボスなんてどうしようもない人間相手に、そんな博愛の言葉を投げかけてくれる女性に出会わないでもなかったのだ。だがそれでも、その優しさに感謝の念を覚えこそすれ、こんな風に躍り上がるような喜びを、感じたことなど。ましてや同じ言葉で答えたことなど、なかったというのに。
「恭弥」
 呼びかけて、それでも僅かに躊躇ったのは、部下のことを思い出してのこと。全く本当に、何と言い訳するべきか。あのときは冗談のつもりで今は本気になりました? 信じてくれたならそれはもう聖人の域だと思う。それでも一度口にしてしまえば、あとからあとから、それは連なってでてきたのだった。
「愛してる。おまえを愛しているよ」
 最初は日本語で、それから母国語で。まるでずっとそういいたかったみたいに。いや実際そうなのだ。
「恭弥、おまえは?」
「さあ?」
「ふ。ひでぇな」
 思わず笑うと、つられたように恭弥も笑った。先程よりも更に、少しばかり赤い頬。気づかずにいられる筈もない。
 真面目な顔で教えてくれた御道徳。いつだって一生懸命な風紀委員長はきっと本気でそう信じているに違いない。だから、オレの下手な嘘がわかっていたくせに、彼はいってくれたのだ。ティ アーモ。あのかわいらしい声が、まだ木霊みたいにオレの耳の中で反響している。だから御要望にお応えして何度でも、一晩中だってオレは繰り返してやる。彼が答えてくれるまで。









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