愛弟子は潔癖症


「その手で触らないで」
 いつにない様子で、まるで怯えたように紡がれた言葉に、触れようとしていた手を止めた。
 いつにないのは当然だ。ベッドの上。彼は殆ど衣服を着用していない状態である。戦いの修行に疲れて同じベッドに潜り込んで睡眠を貪ったことなら何度でもある。だがいまの状況は違う。彼は裸で、オレは眠りよりも何よりもこの子どもを貪ってしまいたい。そんな欲求を今まで露わにしたことなぞついぞなかったのだ。
「きょうや」
 名を呼ぶと子どもがびくりと震えて、即座に後悔した。怯えさせたい訳でも非難したい訳でもなかった。ただオレを見てほしかったのだ。オレは絶対におまえを傷つけるつもりはないのだ、と。
 好きだ、といった。数十分ほど前のことだ。愛してる、おまえだけを愛してる、オレのものにしたい、触れたい。見事に欲求と真情だけの告白。嘘がない、ならいいってもんでもない。実際オレは彼に出会ってすぐ知った自分の内心を告げるつもりなどこれっぽっちもなかった。なぜ伝えてしまったのかといえば、多分勢いとかタイミングとかそんな。切り捨てられて当然の内心を露にするよりも、頼りになる家庭教師みたいな顔をして傍にいたかったのだ。
 だが我が弟子は、あなたってやっぱり変な人だよね、となんだか勝手に納得したように頷くと、オレの手を引いて寝室へと向かった。こてんぱんに拒絶されておしまい、と思ったオレは驚いた。それはもう驚いた。そしてほんの少しの期待をした。
「触らないで」
「………ああ。ああ、わかった」
 正直にいえば、今の状態で拒絶されるのはかなりつらかった。天国への階段………いうなればヤコブの梯子を登ってる最中にいきなりはたき落とされたような気分だ。しかもはたき落してくれたのはオレの天使様で、オレはすでに彼の滑らかな肌も快楽に上ずる声も知ってしまっているのだ。それはずっと想像していたよりもはるかに魅力的なものだった。相手は男の子だってのに! 自分自身にも、そして恭弥自身にも説教したい気分だ。何もそんなに魅力的なままでいてくれなくてもいいじゃないか。
 だが拒絶されるのは当然だと、どこかで思っている自分がいる。だってちょっと自分に置き換えてみたらわかることだ。ある日いきなりずっと家庭教師だと思っていた男に好きだ抱きたいだの何だのといわれ………どうしよう、何だこの恐怖。多分貞子に強姦されるよりもずっと恐ろしい。しかも死ぬ以外に逃げ切れる要素が想像できない。
 いやまあ、だから告白したって受け入れられるとは思ってなぞいなかったし、よもやそれ以上の段階に進めるなぞ考えてもいなかった。だから仕方ないことなのだろうな、とどこか冷静に考えてもいる。なんといっても男同士なのだ。それに相手は子どもで、こんな触れ合いはまだ知らなくてもいい年だ。恭弥は頭に血が上ると深く考えずに動くようなところがあるから、いわれるままにじゃあセックスしてみようとそう考えたものの、実際に受け入れる段になって同性であるとかその他諸々の要素に気づいて、さあとんでもない、となったに違いない。そう考えると少々、いや本音をいえばかなりへこむが、むしろ最初はかなり意欲的に取り組もうとなさってたことを思えばまったく希望がなくなったわけじゃない。長期的な展望で口説くことが重要だろう。相手は子どもなのだ。むしろいわれるがまま、うかうかと誘いに乗ったオレに非がある。
「ごめんな………きょうや。大丈夫だから」
「ちょっと! どこいくの?」
 少し潤んだ、彼の真っ黒な瞳と、頼りなげな様子にこちらが泣きそうになった。彼を傷つけたのはオレなのに、どうして優しいだけの、ただの先生のような気持ちではいられないのだろう?
「ん? 今日は隣のベッドで寝ようかと思ってな」
「なんで。ここにいなよ」
「………きょうや」
 思わず頭を撫でようと手を伸ばすと、怯えたように我が想い人は震えた。当然だ。何を簡単にいい気になっているのだ。オレは溜息を押し殺して立ち上がろうとして、だがここで彼はオレを思い切り睨みつけ、叱り飛ばしてきた。
「いいから早くその手を拭きなよこの馬鹿!!!」
「ばっ………………………………………って、手ぇ?」
 鼻を叩かれて、思わず抑えそうになったその右手にふと視線をやる。ああ確かにちょっと濡れてるなあと、滴り落ちそうになった雫を舐めた。
「ぎゃ!」
「へ? なんだどうした恭弥」
「なにそれなにそれなにそれしんじられないばかぁ」
 かつてない取り乱しようについ固まりそうになったが、すぐ了解した。その手で触るなってそれか。確かに積極的には触りたくない、という気持ちはわからないでもない。だがなんというかこれは。
「おまえが出したもんじゃねぇか………ぶっ!」
 暴力的な想い人は顔を真っ赤にして呼吸を荒げている。かわいい………っていや確かにかわいいがそれどころではない。今にも次の攻撃が来そうだ。
「あなたそんなそんな………風紀が乱れるようなこと」
「え? いや事実確認としてだな」
「だいたいだったとして何の関係があるの。汚いよ」
「………えー?」
 同じ場所から出る別の物なら、数秒前まで自分所属であったかそうでないか如何に関わらず、押し並べて触りたくない、という気持ちはわからなくもない。いやそれ以前に他人のそれに触る機会など赤ん坊………我が家庭教師ではないような部類の生き物の話である………の世話をしてるとかでない限りそうはないわけだが。だがこれは。確かにこちらも、自分のものだとしても、まあ思わず触れてみたいとかそんなものではないのは確かだが、男ならば、ある年齢以上に育った男ならば、まったく触らないで暮らす、というわけにはいかないのではないだろうか。
 そこまで考えて、オレは一つの疑惑に至った。いやそんな筈はない。子どもだ子どもだといっても彼はもう中学生なのだ。だが、確かめずにはいられなかった。
「恭弥………その、おまえ、自分でしたりとか、しねぇの?」
「なにを?」
「………………ワオ」
 驚きだとか罪悪感だとか、何とも救えないことに彼自身より前にオレが触れたのだというどうしようもない独占欲と仄暗い悦び。オレがそんなものにうち震えている間に、薄々は気づいていたけれどもどうやら潔癖症だったらしい我が想い人がそれはもう大量のティッシュの束を携えて、恐る恐るといった様子でにじり寄ってきた。
「まったくもう。そこらへんで拭かないで。あなたってほんとに仕方のない人なんだから」
「おお………すまん」
 生真面目な顔で拭ってくれるのでつい礼をいう。まったくこの子どもは無愛想な態度のせいであまり気づかれてはいないが、根は誰よりも優しい子なの………ってうわ。
「おっまえなにやってんだよ!!」
「なにって………手を拭いたから続き」
「いやだって………とりあえずやめましょうって話になってたんじゃ………ないのかよ?」
「聞いてないよ」
「うんオレがいったんじゃねーからな。だからおまえが」
「嫌になったの」
「なるわけないだろ………」
 なれたならばむしろ楽だったのに。こんな子どもになにしてる………っていうかなにされてんだオレは。
「ほらもうぽいしなさい、ぽい。汚ねーだろー」
「なにそれ。子ども扱いしないで」
 ………子どもじゃねぇか。そう思ったがオレはなんとか口にはしなかった。だが表情だけでも察したのかもしれない。恭弥は明らかにむっとした顔をして、思いきりオレのあれを掴んだ。
「きょ! いやまてまてまてしてねーよ、ほら。な、いい子だから」
「待たないよ。それに汚くない」
「………………………いや汚ねーだろ?」
 この状況下でそうなる自分には非常に、非常に失望するわけなのだが、何といっても触っているのは潔癖症なあの子どもの、常に武器を握っているとはとても思えないほど柔らかな手なのだ。そんなわけで彼の手が動くとそれはすぐに粘着質な音を立て始めた。自分のそれに触れた手で触られそうになっただけで不快感を表明した子どもが、嫌がらない筈もない。
「汚くないよ」
 検分するように恭弥がそれに視線をやって、オレはひどく興奮した。だけれども同時に強い罪悪感を覚える。汚い。そうだ確かに汚い。先ほどまでの勢いを取りさらってみれば、こんな子どもに性的な行為を仕掛けるなぞ、明らかに穢れた行いだった。そうだこんな、潔癖な子どもに。
「汚ねーよ」
「汚くないよ」
「汚い。さっきだっておまえ、自分ので触られそうになっただけで嫌がってたじゃねぇか」
 あれは汚くないけれど。さっぱりわかってない子どもが、体の欲求に従って放出しただけのものだ。オレのそれとは意味が違う。だがわかりやすいと思って指摘してやると、かわいい人の顔はどんどん赤くなっていった。
「………それとこれは話が違うだろ。汚くないよ」
 曇りのない瞳につい視線を落とすと明らかに汚くないとはとてもいえない、それが目に入った。持ち主の内心とは裏腹に明らかにやる気満々で、それがまた罪悪感を募る。だいたい、子どもの頃からいわれたものだろう? 自分がやられて嫌なことは人にもしちゃいけません、って。彼でなく女性が相手だとしても、まあ性交は生命の営みであるからして当然であるとして、口でして、もらう、とか。そういう自分ではできないことをしてもらうというのは、よろしくなかった。いまならわかる。
「ディーノ?」
 そこまで考えて、気づいた。恭弥の放出したそれ。オレは特に躊躇いも何もなく口に含んで、ああこんな味がするもんなんだなあなんて思って、だってオレは特に潔癖だというわけでもないけれど、まさか自分の物を舐める理由もあるまい? どんなアクロバティックな自慰だ。だがそれだけでなく、女性が相手だとしてもオレは自分から必要以上に触れ合う欲求を感じなくて、それはオレが。
「………汚く、ないよ?」
 恋をしていなかったから。全ての価値観が揺らぐ瞬間を知らなかったからだ。
「恭弥、オレはまだ聞いてねぇ。大事なことを聞いてねぇよ」
「なにを」
「おまえの気持ちだ」
 勢いのまま寝室に導かれただとか、オレは彼の家庭教師なんだとか、とても受け入れられる筈がないと思っていただとか。そんなことは言い訳だった。オレはただ怖かったのだ。だがいまなら聞ける。潔癖な、自分のそれすら触れるのを嫌がる子どもが汚くないといってくれるから。
「そ、んなの」
「………ん?」
「そんなの………聞かないでもわかりなよ」
「………おっまえ、なあ」
 かわいい。ああいうまでもなくかわいい。だがこのままではいけない。なんといってもこちらはイタリア人で、二人でいるならせめて十分に一度くらいは双方の意思を確認し合いキスの一つもしたい。そうでなければ、恋人同士のちょっとした会話すらスムーズに進みはしないではないか。
 そこまで考えてオレはどうにも頬が緩むのを止められなかった。まったくいまは深刻な状況であるというのになんということだろう? だがオレが先ほど本人の言質を得ずに承知したところによるとどう考えても恭弥はオレを
「が! ………っていってぇ! おまえさっきから鼻ばっかり狙うなよ!」
「もとから馬鹿みたいに高いんだから構わないだろ! いいからさっさとやりなよ!」
「………きょうや」
 汚く汚れた手でオレの鼻を叩いてくれたかわいい人は、偉そうにふん、とそっぽを向いた。まったくこれはどう見てもさっぱりわかってない。仕方がないな、と思った。ああまったく仕方がない。こんなかわいい人、家庭教師であるオレが一から教えてやらなければどうしようもないではないか。





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