「久しぶり! 恭弥!!」
 師が走るほど忙しいから師走というのだと、以前かわいい弟子に教えてもらったことがあったけれども、全くその通りで、ここ数日、オレはとんでもなく多忙にしていた。日本のホテルで指示を出しているだけで事足りる筈もなく一旦イタリアに帰り、身を粉にして働いたあと、何とか今日、この並盛にある中学校の応接室に舞い戻ってきた。まともに睡眠時間もとれてはいないし、休暇ということであちこちの別荘に所在を散逸させている、親交のあるファミリーのボスらのもとを訪れて回ったので、精神的にも肉体的にもまさに疲労困憊。だがこの人のかわいい顔を見ただけで疲れなぞどこかへいってしまう。多分世界経済を立て直すためには、みんながみんなこんなかわいい恋人とつきあえばいいのだ、いくらでも働ける………いや恭弥みたいにかわいい人なんて、他にいやしないだろうけれども! オレはどうにもテンションがあがって、両手を広げて恋人に抱きついた。ああ、恋人なんて呼ぶのもあとわずかの間のことだと覚えば、いつも以上に甘い響きを持つ言葉に思われるものだ。
「ノックくらいしなよ」
 なんの香水をつけているわけでもないのに甘い香りのする我が恋人は、それをオレが思う存分堪能している間、トンファーでオレの後頭部を数度小突いてくれた。痛い。ああ正直痛い。だが血もでていないし、トンファーのギミックもだされていない。子猫が爪をださずにじゃれているくらいのもので、その力加減をもう少し弱めることを教えてやるのはオレの役目なんだろう、たぶん。でもここまでやったら痛いだろっていっても、この子は喜んだりするのだ。どうしたものか。
「ほーら、痛ぇって、な。恭弥。そこらへんにしてくれ」
「痛いなら気絶くらいしなよ。気が利かないな」
「………しません。つかできるか、そんな自由自在に」
「しときなよ。あなた、眠そうな顔してる」
 ワオ。みれば恋人は心なしか心配そうな顔をしていて、オレは今にも泣きそうになった。なんということだ。疲れなんて今はさっぱり感じられない気がしたけれども、オレは数えて見れば六日間、きちんとした睡眠をとっていない状況で、この人の目を誤魔化せる筈もなかったのだろう。今は何かアドレナリンとか、凄く強力な何かが体内を駆け巡っていて、世界征服だって出来そうな気分だけれども、それは一時のことで、よく見れば疲労が目や表情に出ているに違いない。うわあ、はずかしい。
「それにその格好。何の冗談なの」
「へ? 似合わないか?」
 つん、とかわいらしい鼻で示してみせたオレの服を確認する。今日はいつものラフなモッズコートやブルゾンではなく、きちんとした正式な服装だ。TPOを鑑みれば当然のことである。どんな時でも、マフィアとしてではなくオレ自身として決断を下したいと、必要がなければカジュアルな格好のまま仕事にあたっている。鎧なぞ身につけるのは最小限の場面でいいというのがオレの矜持。だが今日ばかりはそうともいってはいられない。いずれ家族になる心づもりだとしても、相対するのは最大の敵。そりゃそうだろう。中学生男子である息子にいきなり求婚者が訪れて、反対しない両親がいたらむしろそちらの方がみてみたい。オレは最大限に正式な、隙のない恰好をしてきた。即ち黒のスモーキング。ネクタイも、カマーバンドすら黒無地である。いつもだったらさりげなく見えるところに気を使うのがいい男だと蝶ネクタイはともかく、カマーバンドや靴は少し外した色合いのものを採用するところ。だが、たとえ僅かなりとも、この婚姻を反対されるかもしれない要素は潰しておきたい。今のオレは、いきなり政府官邸だのなんだのに呼ばれたって、気後れしないだけの衣服を身にまとっている。
「やっぱりさ、こういうときはきちんとした格好でいくべきだろ」
「まあ、そうかな? でもいくらなんでも気が早いんじゃない。神社とかお寺とか行く直前に着替えればいい話じゃないか」
「なんだ、おまえこそ気が早いな、恭弥」
 あまりにかわいいことをいわれて、オレは口元が緩むのを止められなかった。男同士であるとか、同盟ではあるものの別ファミリーの人間が相手であることもあって、オレは式のことまではとてもとても頭が回っていなかったけれども、そりゃ白無垢の恭弥なんて是が非でもみたい。だがいくら気が急いても、その姿を見られるのはどう考えても今日明日の話じゃない。
「まあ日本では一大イベントだからね」
「そんなのどこの国だって一緒だろ。一世一代の大勝負だからな」
「………それはすごいね。まあでも、いつだってそれくらいの覚悟で志をたてるべきなんだろうけど」
「なんだよそれ」
 つい声が硬くなる。婚姻は一生のもので、いつだっても何もない。そこらへんはいくら頭が固いといわれようとも、幼い頃施された宗教的教育の影響が多々あるのだ。離婚は罪悪。いやそれ以前に同性同士の婚姻が認められていないので、離婚も何も、といえばそれまでなのだが。
「書き初め。宿題の一つにあってね、大体九十九%の生徒が風紀、って書くんだけれども、一年を通じて守れているのはごく僅かだ。全く世も末だよ」
「え…………?」
 いわれてはじめて、オレは今日が何日なのかに気づいた。いくらイタリアではクリスマスの方が重要視されるといっても、これはもうさっぱりまったく言い訳にもならない。三十一日。大晦日。一年最後の日である。つまり恭弥が話題にしていたのは一生に一度の筈の最良の日ではなく、多分初詣で。というか。
「なんでおまえこんなとこいんだよ………」
 全く疑いも持たずに空港から直行したオレもオレだが、今はもう八時を回っていて、普通だったら日本人はみな、夕食を平らげて、そして紅白をでも見ているべき時間帯だ。一般的に日本人は一年の最後の日をそうやって過ごすのだと、以前聞いた記憶がある。多分きっとすごく音楽好きな民族なのだろう。オレが一番親しく知っている日本人は、その情熱を全て一つの校歌に傾けているので全く気づかなかったが。
「何こんな所って。死にたいの」
「いやいやいやそうじゃなくてだな! 普通こういう日は日本では家族で過ごすんじゃないのかよ」
「僕はいつでも僕が好きなように過ごすよ。………イタリアではどうやって過ごすの?」
 日誌や文房具を片づけながらの質問ではあったが、オレは嬉しくて今にも舞い上がりそうだった。出会ったばかりのころから比べれば少しずつではあるが他愛のない会話に付き合ってくれるようになった。それは多分オレにだけだ。オレにだけ。それをわかっているからどうしようもなくオレは自惚れてしまうというのに。
「ああそうだな。イタリアでは恋人たちの日って感じかな。陽気に騒いで御馳走を食って、カウントダウンに合わせて思い切り花火を打ち上げたりしてさ。そこらじゅうで花火をやるから、すっげーうるせーけどめちゃくちゃ綺麗なんだぜ」
「群れてるね」
「まあなあ。そこらへんはたまには無礼講ってことにしといてくれ」
「ふうん。それより、終わったよ」
「そうか。あ、恭弥んちって遠いのか? 距離があるなら車をまわしてもらうぞ。今日は寒いもんな」
 気が利かない自分に呆れながら提案する。あまりに気がせいていて、ホテルで着替えてすぐ並盛中学まで走ってきたのだ。運よく恭弥がいたからいいものの、そうでなければ途方に暮れていたことだろう。
「なにそれ。あなた何しに来たの」
 恭弥はすぐに視線を尖らせて、オレも反省する。せっかく迎えに来たのにこれではいけない。いつものようにそのままホテルに移動するなら、歩いて五分とかからないけれど、今日はそうではない。風邪をひかせるような扱いをしているとは思われたくないし、何よりタキシードの男と学ランの中学生の二人連れなんて、日本の街中ではいや世界のどこでも相当浮くに違いないのだ。
「おう、恭弥んちにな」
「聞いてないよ」
「うんだからほら、結婚の話にな、親御さんに御挨拶しなくちゃだろ」
 この恰好で他に何がある、とも思うが相手は常識の通じない人だ。何かあるとでも思ったのかもしれない。
「知らないよ」
「恭弥ぁ」
「知らない。しないよ結婚なんて。何考えてるの」
「………恭弥」
「あ」
 思いきり肩を掴むと、戦闘狂の子どもがまるで怯えたような声を挙げた。だがそれでもオレの怒りは収まらなかった。まるで暗闇の中に放り込まれたような気分だ。だってあのクリスマスイヴの日、オレがどれだけ喜んだと思うのだ。有頂天になって、休暇を返上してイタリアでの地固めに奔走して、これではまるでただのピエロではないか。
「するんだよ、恭弥。おまえはオレのものなんだ」
 わかりきったことを噛んで含めるように教えてやる。だが愛しい人は思い切り睨みつけてきて、オレは泣きそうになった。なんでこんな簡単なことさえわかってくれないんだろう? ひょっとしてまかり間違ったら、オレは教師には向いてないんじゃないだろうか。取り合えず倫理的に見たら失格以外の何物でもない状況であるのだ。
「あなた、そんなに僕と一緒にいたくないの」
 だが返答は、全く思いもよらないものだった。普通プロポーズというのは、一生一緒にいたいと思う相手にするものではないのだろうか。
「正月は恋人と過ごすものなんだろ」
 まるで思いつめたように恭弥がいう。握りしめた手がかわいそうだった。
 ああ、その発想はなかった。まさに目からうろこ。アナニアの祈りによって目から鱗のようなものが落ちた聖パウロのように、オレにはすべてがわかった。
「しばらく冬は休みが取れるっていってたのにあなたいきなり帰って連絡もないし。それを会っても馬鹿な理由つけて家に帰れとか、あなた僕をなんだと思ってるの」
「そうか。そうだよな。恭弥はオレと一緒にいたかったんだな」
「な! 違うよ何馬鹿なこと」
「ごめんな恭弥。オレも一緒にいたいんだぜ」
 思えばいつものホテルではなく家に送るといった時点で、恭弥は憤慨していたのだろう。無神経なことをしてしまった。
「………あたりまえだよ」
「そうだな」
 真っ赤な顔を見ないように華奢な体を抱きしめて、つむじのあたりにキスをした。かわいい。ああかわいいとも。だがオレは汚れた大人で、男とは現金なものである。久しぶりに感じた彼の体温に興奮して、本音でいえば、今にもむしゃぶりついてしまいたい。一週間ほどもまともに寝てもいないのに、と思うがそれと同じ日数だけオレは彼に触れていないのだ。だがオレはあの日、彼に対して紳士的に振るまうと決めたのだ。少なくとも今日、親御さんと会う前に不埒な行いを完遂してしまえば、気まずいことこの上ない。
 そう、健気な恋人の主張を聞いたにもかかわらず、オレはまださっぱり諦めてはいなかった。もちろん彼の不安を取り除いてやることは重要である。それにオレだって一緒にいたい。だが、オレはマフィアのボスで、大人で、少なくとも大局を見極めることができる。今日この日と、それから先一生続く筈の蜜月をはかりにかける必要があるだろうか。いやないとも!
「恭弥。家族になるっていってもな、今日明日の話じゃねーよ。まずご挨拶しなくちゃいけねーし、いろいろ準備もあるし」
「………」
「だからまだ恋人同士、だろ? てかそりゃ恋人同士で過ごす、とはいったけど、既婚者は普通に家族で過ごすぜ? 家族とか親戚で集まる日、って感じじゃないだけでおいしいもの食べたりしてる筈だ。日本だってクリスマスでも結婚してたなら家で過ごして当然だろ?」
「だって」
「ん?」
「………だってイタリア人だし」
「いやいやいやいやどんな偏見だよ! てかオレがどれだけ一途で健気だと思ってんだ!」
 思わず突っ込む。そりゃ日本人のような奥ゆかしい感情表現は習得していない人間が殆どであるし、宗教的にも政治的にも気軽に離婚できる状況ではないため、家庭生活は壊滅的な状況に陥っても籍は入れたまま別居して新たな生活環境を築く人間も多い。そこら辺が逆に、他の良識で生きている国の人間には不実な様に見えるのだろう。だがそれは宗教にも自分の本音にも正直でいようと選択した故のこと。そして神に許される筈もないこのオレが、唯一変わらないものとして信じるならば、それは目の前にいるこの少年に他ならないのだ。
「そうなの?」
「………そうだよ。じゃなかったら中学生にプロポーズなんかするか」
 正しくは聖夜にプロポーズなんてされるか。全く今思い返しても嬉しくて居たたまれなくて面映ゆくて、何とも表現し難い状況である。だがあの後こちらからもし返したし、間違った主張ではない筈だ。
「だからちゃんと挨拶して、きちんとしてーの。そうじゃないと風紀が乱れるだろ?」
「なにそれ、聞いてないよ」
 顰められた眉間についキスをして、すぐ後悔した。こんなかわいいキスではなくて、もっと触れ合いたい。だがなんとか大人の顔をしてオレは説明してやる。
「まあ価値観はそれぞれだろうけどな。でも本人たちの意向は定まってるのに伝えないのはおかしな話だろ」
「………」
「ちゃんとオレたちは幸せですよーって伝えて………って恭弥、どうした?」
 すっかり俯いてしまった恋人に慌てる。真面目な人だ。ここでやっぱりやめましたとか、そんなことをいわれたらオレは死んでも浮かばれない。
「いないよ」
「………へ?」
「出かけてる」
「………あーそっか。悪ぃな。確認取っとくべきだったな」
 オレは思い切り恭弥を抱きしめた。まったくそんな可能性思いも浮かばなかった。だが日本人は盆と正月にはその生まれ育った故郷に帰る人間が多いと聞く。なんとなく、恭弥はそれこそ十代以上も前から並盛で生まれ育った家系のように想像して、それを疑ってもいなかったわけだが、きっとそうではなかったのだろう。予告もせずに正装した恋人が現れて、だが家族は留守。きっと気を揉ませてしまったに違いない。
「どこ行っているんだ?」
 純粋な興味で質問してみる。こんなかわいい人、日本のどこら辺なら生まれるものだろう?
「ハノイ」
「え?」
「いやハワイだったかな。なんかどこか外国。三文字の国だよ」
 いやその二つ国名じゃないから、とまず突っ込むべきだったのだろうか。とんでもなく美しいけれども、どっからどう見ても日本国原産な恋人は困ったように首を傾げていて、多分故郷に行くだとかそういうものではなく、単なる家族旅行なのだろう。
「………てか、おまえ行かなくて良かったのかよ?」
「なにそれ。だからあなた僕といたくないなら最初から」
「だからそんなわけあるか! 会えてうれしいぜ。でもいきなり来ちまったし、恭弥が家族で出かけてる可能性もあったんだなって思ってよ」
「なんで僕がそんな群れたとこ出かけなくちゃならないの」
「ああ。うん、そうだな」
「ただでさえ年末年始は風紀が乱れやすいからね。並盛を離れるわけにはいかない」
 得意げに教えてくださる様子に苦笑する。ああだがつまり今日の予定はキャンセル、このタキシードは無駄になったってわけだ。正直残念だが、そう思うと同時にふっと、体から力が抜けて、自分はとんでもなく緊張していたのだと否が応でも自覚する。情けないことこの上ないが、今緊張しなくていつするんだという話だ。オレは大きく伸びをすると、相変わらず薄着で、学ランと、クリスマスにやったばかりの赤いマフラーをくるりと巻いた人に声をかけた。
「じゃあ今日はホテルに行こうぜ。いつものハンバーグ用意させる」
「今日はうちに帰るよ」
「なんだよまだ納得してねーのかぁ?」
「違うよ」
 振り向くと恭弥は楽しげに笑った。
「あなたも来るんだ」
「………へ? だって親御さんはいないんだろ?」
 ご挨拶はまた後日。オレの日本滞在中にそのハワイだかハノイだか地球上のどこかの国から御帰還あそばされなかったならば、次のチャンスはひと月以上先のことになるだろう。気持ちばかり焦りはするが、いくらポジティブに考えたってスムーズにはいどうぞと認められるわけがないのだし、またそうだとしてもこちらには諦めるつもりもない。大体男同士で籍を入れられる筈もなく、また、学校がある恭弥をイタリアで暮らさせるわけにもいかないのだから、例え公式に認められたとしても、今の遠距離恋愛といってもいい状態が即座に大きく変わるというわけにはいかないのだ。だがせめて次のクリスマスまでには家族であるという共通認識を取り付けておかなければ。そう新年の志を心に誓っていると、恭弥がくい、と袖を引いた。
「ん? どうした」
 問いかけると恭弥はまるで頑是ない子供にいいきかせるように、わかりきったことを噛んで含めるように、大事なことを教えてくれた。オレが知ってるつもりでさっぱりわかっていなかった事実を。
「そう。今日は親御さん、はいないんだよ?」


 日本文化最高。ホテルに宿泊していたのではとても味わえない、こたつも、恭弥がお湯を注いでくれた年越し蕎麦も、部下に手配させた料亭のおせちも、ミカンもどれもすばらしかった。それともちろん、ああ、姫始めも。オレは日本的正月を母国的には主流であるとされる関係性にまだある方と楽しみ、この国の正しさを実感した。まったく花火なぞ打ち上げている場合ではない。今年、二人の間柄が、めでたく師弟でも恋人同士でもない何かになったとしても、正月の過ごし方だけは変えずにいようと、オレは心に誓った







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