応接室のドアを開けた瞬間、オレは驚きのあまり固まった。
「なにしてるの、入るなら入りなよ」
 仕事の手を止め顔をあげた恭弥にそう促され、慌てて両手に提げていた紙袋を持ちかえ、ドアを閉めた。室内は暖房がきいているが、廊下の空気は冷え切っている。この子どもが風邪をひいてはいけない。
「ディーノ先生?」
 初めてそう呼ばれた時は、内心かちどきをあげたくなるほど、大喜びをしたものだ。だが今ではわかっている、恭弥がこんなふうにオレを呼ぶのは、周りに何も知らない生徒たちがいる時か、機嫌が悪いとき。この部屋に他の人間の気配はないから、多分後者だ。てか、そんな推測をしなくても、ぷっくり膨らんだ頬を見れば一目瞭然。
「えーと、その、な?」
「なんなの、いいたいことがあればはっきりいいなよ」
 そうくると思った。だがオレにもプライドはあって、いやそれよりも、臆病さとか見栄とか虚勢なんてものも多分に抱えていて、つまりなんというか、いまいいたいことは、あまりはっきり口にしたくない。だがいわなければ何も始まらない。
「………ギブミーチョコレート」
 わかっているけれども、躊躇いはあって、だからオレは英語でいいたいことを口にした。オレは今、恭弥の呼びかけたとおり、並盛中学の臨時英語教師であるので。といういいわけだ、つまり。あげないよといわれたら、なんだよ冗談だぜと誤魔化してやろうという、情けないこと極まりない保険。
「………………戦災孤児?」
「………………………えっ?」
 だがこの返しは予想もつかない。オレは思わず慄いた。明らかに応答になっていない。
 最近二度に一度は恭弥はオレの授業に顔を出してくれるようになって、だがどう見ても終わったあとの約束の手合わせの前に逃げ出さないようにオレを見張っているだけ、という感じで、明らかにノートをとっている様子もまじめに授業を聞いてる様子もなかったけれど、それでも、一応理解できてない感じはしなかったのに。
「恭弥、オレと勉強しようぜ。その、手合わせの前にちょっとだけ。今のが意味わかんねぇとか、駄目だって」
「何いってるの………あ、おなかすいてるの?」
「ああ!」
 っていや腹は減っていない。だが先程とは違って応答としてはおかしくない。安堵のあまりオレは思わず歓びの声をあげた。こんな簡単な英文もわからないとなると、教師としたら頭を抱えてしまうところだった。
 いやだが今日この日、チョコレートを所望されての返しとしたら、やっぱり頭を抱えるべきものかも。恋する男として。じわじわとオレは冷静さを取り戻して、だがだからといって失望はしていない。最初から貰えるなんて殆ど全く期待していなかったし、下手な誤魔化しをいわないで済んだだけ儲けもの。
「ちょっと待ってて、ちょうど…」
 ごそごそと恭弥は机の引き出しを探った。多分、保存食とか栄養補助食品とか、何か持っているというのだろう。オレは思わず目を細めた。本当に、ちょっとわかりづらいけれど、優しい子なのだ。オレは彼が好きだ。会うたびにどんどん好きになる。そしてほんの一週間前、オレはとうとう耐えられなくなって、告白をした。それに対する恭弥の答えはよくわからない、というもので、だからといってオレは落ち込んだりはしなかった。むしろ、あの恭弥がそんな話をきいて、怒りもせずばっさり切り捨てもせず、ときたら喜んでいいのかもと思ったものだ。答えはいつでもいいぜとオレは笑って見せて、実際はじめから長期戦は覚悟している。だから、ちょっと冗談めかしていってみただけで、チョコレートを貰えるなんて思ってたわけじゃない、うん。
「あんがとな、恭弥」
「………………あなた」
「ん?」
「僕をからかってるんだね…」
「え? いやおまえ、なにいって」
 わけがわからない。引き出しを覗いていた顔をあげた恭弥は、とんでもなくムカついております、という表情を浮かべていた。
「騙されないよ。信じられない。そんなたくさんチョコレートをもっていて、おなかがすいている筈ないじゃないか!!」
「あ」
 はたと今自分が持っている二つの紙袋の存在を思い出す。先程の授業の後、生徒たちから貰ったものをいれていたのだ。普通だったら困惑するところだけれども、日本ではバレンタインで、義理チョコといってお世話になっている人間にもチョコレートを渡す風習があると聞いている。だから教師であるオレが貰うのはなんらおかしいことではなく、つまり、片恋の相手に疾しさを感じるべき要素はまるでない。というか恭弥が問題としているのは、食糧が十分にあるのに弟子から食べ物を恵んでもらおうとしていた、ってことなんだろうけど。誤解だといおうにもうまくいいわけできる気がしない。というか今問題にすべきは。
「それいうならなんだよ、恭弥そのチョコレート!!」
 思わず叫ぶ。この部屋に入ろうとして、つい固まってしまった理由もそれだ。床に置かれた、大小ある段ボール。そこに溢れださんばかりに入れられたかわいらしく包装されたもの………どう考えたってチョコレートで間違いない。
「なにそれ」
「あ、いや………いやだって」
 勿論オレには文句をいう筋合いはない。そんなことはわかっている。だけれどもあまりの衝撃で、口に出さずにはいられなかったのだ。恭弥がこんなにももてるなんて、考えもしなかった。誰だって自覚したばかりの片恋に、思わぬ伏兵が二百人ばかりいるらしいと知ったら相当なショックを受けるものだと思う。
 実をいえば、彼が女子生徒に人気があるらしいという話は、前々から耳にしていた。彼の部下の草壁の話をきいたというオレの部下のロマーリオを通して。だがその時のロマーリオは相当酔っていた。草壁とおでんの屋台で日本酒を相当きこしめしたのだとかで、滞在するホテルの廊下で出くわしたとき、彼はとんでもなく真っ赤な顔をしていたのだ。だから俺もなあ聞いてんのかボス、と彼はいったものだ。だから俺も、うちのボスはパーティーのたんびにアンジェリーナ・ジョリーみてぇな美女に囲まれて窒息しそうになってるんだぜっていっといてやったぜ。
 この流れでへぇ恭弥は女の子に人気があるんだと、素直に受け取る人間がいたらお目にかかりたい。だってオレはアンジェリーナ・ジョリーに囲まれるなんてそんな楽しげな体験はしたことがない。マフィアのボスの中では群を抜いての若輩者であるので、パーティーともなると気をきかせて話しかけてくれる女性もいなくはないが………いや別に彼女たちをハリウッド女優と引き比べてどうこういいたい訳じゃない。ただまあなんというか、うちの部下は中学生に対抗して何を盛大に話を盛っているんだとびっくりしたわけだし、恭弥の方だってまぁ大分大げさにされた話なんだろうなとそのときは思ったわけだ。
 そして今、草壁はうちの部下と比べて正直もので嘘をつかないなぁと遠い目をする羽目に陥っているわけだ。どうしようさっぱりうれしくない。
「なにそれ、くれるってものはもらうよ。あたりまえだろ」
「え? ああ………そうだよな、悪ぃ」
「見回りで解散が遅くなることも多いからね………委員には校則で買い食いや寄り道は禁止されてるし」
 それって秩序のおまえはオッケーって話だよなと内心突っ込みつつ、オレは思わず目をまたたかせた。だってつまり。
「それって………委員の皆でそれ食うつもりだって話か?」
「そうだけど? 僕一人でこんなに食べきれるわけないじゃない」
 ワオ。オレはこっそり同情した。プレゼントした女の子たちはこんなこと知らないんだからまだいいとして、これを食べざるを得ないんであろう委員たちに。きっとたいそう微妙な気持ちになる筈だ。
「あなたはそれ全部、自分で食べるの?」
「え!!や! 部下たちとな! みんなで食べようかと!!」
 咄嗟にくだらない嘘をついてしまう自分をひっぱたいてやりたい。とはいえオレが貰ったのは義理チョコって奴で、つまりはジャポーネ独特の、お歳暮とかお中元みたいなものなんだろうし、部下たちみんなで食べたって何の問題もない筈だ。
「ふうん」
「………いやしっかし、すげー量だな! 恭弥がこんなもてるなんて知らなかったぜー」
 とはいえあまり褒められた行動ではないのかもしれない。気まずさにオレは一番触れたくない話題に自分から触れていた。馬鹿である。
「え?」
「………え、って?」
 だがかわいい弟子は驚いたように目を丸くして、こっちが驚いた。おまえこれでもてないとかいったら、夜道で刺されたって文句はいえねぇぞ。
「もてないよ」
「………」
 いった。まああれだ、オレが守ってやるっていうか、負ける奴じゃないから心配してないっていうか。
 そうだ、これだけ彼は強いのだ。それに優しくて、ちょっとわかりづらいけど気だても良くて、時に周りが………つうかオレが気を揉んでしまう程真っ直ぐな子だ。トンファーを構えていなければ、お人形さんみたいなかわいらしい顔をしていて、時折見せるあどけない表情はどうにも見惚れる程。もてない方がどうかしている。ただ単にちょっとトンファーを振り回すってだけで、女の子は怖がって近づかないだろうなんて甘く見ていたオレが馬鹿だったのだ。
「これは賄賂とかそういう奴だよ。喜んで目こぼししてもらえるかもとか思ってるんじゃないかな。実際、渡してくる女子は、スカートの丈が校則ぎりぎりだったり、派手な髪形をしている子とかね。問題行動を起こす可能性がありそうだということで、全部開封して名簿は作らせてるけど」
「………わお」
 だがこれは予測がつかない。それただ単に高嶺の花な風紀委員長にチョコレートを渡す勇気のある子は、かわいくて自己アピールにも余念がないタイプってだけじゃないの。いやまさか。だってその説でいったら、こう、例の虫が一匹見つけたらな説と同じで、内気で渡せないだけな女子がこれ以上にいっぱいって話に。
 思わずジャケットのポケットを探る。そして、段ボールに積み上げられた山に視線をやった。かわいらしいラッピング。大仰なリボンに造花にシール。明確に判断がつくわけではないけれど、どうやら大方は女の子自ら包装したもので、つまりもしかしたら中身も手作りかもしれない。中身も手作りかもしれない。思いついて、そして自分でも信じられない程のショックを受けた。だってこのポケットの中の物はどうしたって渡せやしない。菓子作りなぞしたことがないのでよくわからないが、チョコレートを溶かし、更に固めるという作業にはそれなりの苦労がある筈だ。ただ単に行って買って持ってきただけ、のイタリアのショコラティエのチョコレートに何の価値があるだろう?
「そんなことをいってあなたはもてるんだろう?」
「え?」
「イタリアでは女子からいっぱいもらってるんじゃないの」
 などと恭弥はいうがもちろんそんなことはない。残念なことに。イタリアではジャポーネのように女性から男性にプレゼントする日という慣習ではないせいもあるが、それ以前にオレはそこまでもてやしない。もちろんキャバッローネの総資産額やこの年齢ということを鑑みると結構な額の年収なんかはそれなりのアクセサリーにはなっているようで、秋波を送ってくださるお優しい方もいないではないけれども、実際のオレは情けないへなちょこ。彼女どころかファミリー一つ背負うだけでいっぱいいっぱいな人間である。なんだかんだで優先順位は下方に追いやられて知らず知らずのうちに会う頻度が減っていつのまにやら愛想を尽かされる、というのがお約束の流れである。
「いや、オレもてないぜ?」
「うそばっかり」
 そういえば、こんな個人的な、好きだってだけで海を渡り、唯でさえ僅かな睡眠時間を削って会おうとする………そんな情熱が自分の中にあるだなんて知らなかった。ほんの半年ほど前に聞いたならば、うそばっかりと鼻で笑ってみせたろう。
「うそじゃねぇって」
「うそだよ。あなたみたいな人がもてないはずないだろ」
「………へー…」
 踊りだしたい欲求を耐えられたのが我ながら理解外である。
「地元じゃしょっちゅうアンジェリーナなんとかに囲まれたりしてるんだろ。そう聞いたよ」
「アンジェリーナ………………なんとか?」
「なんかすごい色っぽくてきれいななひとなんだろ。強いのかどうかは知らないって聞いたけど」
「ああうん、まあ」
 確かに。魅力的だけど強いのかどうかは知らない。てかそこを誰も求めてない。まったく噂という奴はどこまで肥大していくものなのだろう。ていうか信じる奴がまさかいるとは。
「えーと、その、恭弥」
「なに」
「もしかして………………やいてる?」
「そんなわけないだろ」
「そ………そーだよなー! ああもう、びっくりさせんなよ、おまえ」
 馬鹿じゃないのと頬をふくらますかわいい子に、残念というよりは安堵の思いで息を吐いた。オレの今日のびっくりの限界はとうに振り切っているのだ。
「ねぇ、おなかすいた?」
「あ、そうだな、腹減ったか? 寿司でも食いに行くか」
 本当は今日は久々にちゃんとしたイタリア料理を食べたい気分だけれども、恭弥は和食の方が好みなのだし、ジャポーネの恋愛的イベント日に、この子と連れだってリストランテに赴く大変さは、この前のクリスマスで身にしみて学んだばかりだ。
「そうじゃない。それ、食べないんだよね?」
「ああ、ロマたちが食うんじゃないかと………なんだよおまえ、そんだけもらってまだ欲しいのかぁ?」
「違うよ」
 心の中で部下たちに詫びる。いくらお歳暮みたいなものだといったってやっぱり微妙な気持ちになるに違いないのだ。国に嫁さんを待たしている奴もいる。
「ただおなかがすいてるなら、これ、食べるかなって」
「あ、ああ! そっかサンキュな………………って」
 そういえば保存食か何か分けてくれるみたいな話をしていたっけと、ありがたく受け取ってそしてオレは目を丸くした。
「ちょ、え、や! あ、……………………ああ」
 大きく息を吸って吐くと、ほんの少しだけ冷静になった。ああなんてことだ。
「きょうや………おまえ、なぁ」
「な、なに」
「いや嬉しいんだぜ。おまえの気持ちは嬉しいんだけど………すっげーびっくりするだろ?」
 貰ったばかりの、握りしめているものを見ながら溜息をつく。薄い銀紙で包まれ赤い紙が巻かれた板チョコレート。国が違えど、この菓子が子どもたちに比較的安価な菓子として食べられているのだろうことは、見ただけでわかった。それでも滑稽なことに、オレという奴は今日この日であるというだけでちょっとどきどきなんてしてしまったりもするのだ。
「そう?」
「いやだって、ヴァレンタインってだけで、もしかして、って期待しちまうだろ? そりゃもちろん、板チョコで恋愛も何もないってわかってはいてもさ」
「え?」
「………………え? って」
 目を丸くして固まってしまった子に先を促す、もしかして、いやまさか。
「………」
「その、きょう」
「なに」
「うん………その、ヴァレンタインのつもりでくれたりした? これ」
「そんなわけないよ」
「そ、そか」
「板チョコでヴァレンタインも何もないんだろ。馬鹿じゃないの。チョコはチョコじゃないか。なにが違うの」
「お、おお。そうだなー」
 やばい。そういわれると自分がとんでもなく小さなことに拘っている男に思えてきた。もしかしたらショコラティエはチョコレートの上にチョコレートは作らない、のかもしれない。ていうか、おまえ一週間前に一世一代の告白に対してよくわかんないとかいったばかりじゃないかとか、そもそも嘘が下手すぎるぞとかいいたいことはいろいろあるのだけれども。
「すっ………………げぇ嬉しい…」
「そう」
「ああ」
「よかったね」
 つんと横を向いた人の顔は、手渡されたチョコレートの包み紙と同じくらい真っ赤だ。まったく、どこまでオレを喜ばせたら気が済むのだろう。
「なぁ」
「なに」
「恭弥は………腹減ってねぇ?」
 オレが持っているのは手作りでもなんでもない、イタリアから買った来ただけのチョコレート。だが大量生産の板チョコでも、人はここまで幸せな気分になれるのだ。それがわかった今、なにを恐れることがあるだろう。
「………………すいてる」
 そして心得たふうに手を伸ばしてきた子は、流石チョコレートを貰いなれているドンファンである。だがオレがあげるそれが委員たちの胃袋に納められることはないことはわかっている。オレは笑みを浮かべながら、二度目の告白をすべく唇を開いた。














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