「えーと………恭弥?」
「なに。だまってなよ」
「えー…」
 黙ってられる筈がない。なんだこれ。なんだこの天国。
 久しぶりに夕方から体が空いたので、ディーノは愛息子の通う中学校の応接室に出向いた。仕事が終わるのを待って、それでスーパーで買い物でもしてから家に帰ろうとそう思ったのである。だが仕事に励んでいるべき我が息子は、一応書類を(ディーノに捲らせて)確認をしてはいるが、ドアを開けたとたんぎゅむぎゅむと情熱的に抱きついてきてその態勢のまま、さっぱりまったく離れようとしないかわいいなこの甘えっこめ。
「どうした、なんかあった?」
「別に」
 そんなわけないだろう。
 だがここまで唇が緩んでいて、詰問などできよう筈もない。とはいえ、いつもだったら、寝てる間はもっと年端のいかない子どものようにくっついてくるきらいがあるものの、基本的にはクールで群れたがらない子どもである。引きとったばかりの頃は、おはようのキスですら育った環境の違いを理由にして拒もうとするくらいだったのだ。やっぱり寂しいのかなあ、とディーノは思った。
「きょうやぁ。大丈夫か、明日から」
「平気だよ」
「そっか? 恭弥はしっかりした子だもんな。大体一週間くらいで帰れると思うけど………オレは平気じゃない。寂しいぜ」
「平気になりなよ」
 胸に顔を押しつけながらいうような台詞ではない。ディーノは唇がむずむずするのを感じた。ああもう赤い靴を履いていた子どもよろしく、さらっていって思いきりかわいがりたい。ぎゅむぎゅむしたいいや今してるけど!
「頑張って超特急で仕事終わらせてくるからさ。電話もするし」
「ねぇ」
「ん? どした」
「仕事って………どんなことするの?」
「へ?」
 ディーノはまじまじと膝の上にいる天使を見つめた。どうしたことだろう。いつもならマフィアの仕事全般に殆ど興味を持たない人である。誰だって自分のことに興味を持たれて、嬉しくないはずがない。ディーノは舞い上がりそうな気分のまま口を開き、そしてまた閉じた。
 仕事? 仕事ってマフィアの仕事だ。もちろん。穏やかな表の企業としての顔もあるが、そうだとしてもとてもとても、こんな優しい心を持った子どもに話すべき内容ではない。
「いやだから………まあいろいろだぜ! いろいろ!!」
「曖昧だね」
「そりゃほらあれだ、マフィアのボスなんてなるとよ、ルーティンワークとはいかないというか………そんな変なことはしてないぜ」
 風俗関係とか。そりゃマフィアたるものそこらへんの関係の事業にまったく手を出さずにいられるはずもない。基本ぼったくりであるし。だがキャバッローネはここ何代かむしろカジノ経営だのの方で儲けてきたこともあって、そこまで風紀を乱すような仕事は………いやどっちもどっちか。ああ、純真極まりない息子の視線に晒されているのが今は後ろめたい。
「あなた、大丈夫? 僕がいなくても」
「ん? 大丈夫じゃないぜ、オレは恭弥がいないと。すぐ帰ってくるからな」
「そうじゃない」
「んん?」
 難しい顔をして息子はうつむいた。ディーノは内心慌てる。父としての威厳なぞ、こんな時世界中のどこを探したって見つかりはしない。
「あなた………出かけるときは、さ」
「うん、なんだ」
「だから出かけるときは………その、その時だけだけど」
「だからなんだって」
 頭を撫でる。そう、書類仕事は日本でもできる。だからイタリアに戻ればここぞとばかり、他ファミリーの人間との会談とか、あとシマを見回ったりなんやかんや。基本的にあちこちを出歩いていることになるだろう。ああ。ファミリーの皆に会えるのは嬉しいけれども、どう考えてもハードスケジュールなのだけは間違いない。
「だから出かけるときは………………………っ」
「んん?」
 よく聞こえない。耳を近づけてみせると我が息子は頬を赤らめこちらを睨みつけながら、不承不承といった感じでもう一度繰り返してくれた。余りに信じがたい言葉を。
「だから!! その時は群れてもいいって!!!」
「へ? きょ………きょうや」
 ディーノからしたらファミリーは皆大事な仲間であり、プライヴェートの問題で日本にいて、その間会えないでいる人員が多数いることは心苦しく思っている。イタリアに戻ればきっと仕事は山積みの筈で、だが一回くらいは酒を飲んで皆で騒いで、これはもう楽しみであると同時に義務みたいなものだ。無事にやってるところを見せて安心してもらう。キャバッローネは、福祉厚生の発想すらなく離職率の高い他ファミリーに比べたらわりと年齢層が高いためか、ボスを子ども扱いしてあれこれと親身になって心配してくれる、そんな人材に恵まれているのだ。だからディーノとしたら雲雀のいうところの「群れ」ないつもりなぞこれっぽっちもなかったし、そのことに関して雲雀から許可をもらう必要性もまた、感じていなかったわけである。だがまさか我が息子が、「群れる」ことを容認するなぞも予想だにしていなかった。
 この子が、この人と慣れあうのを嫌う子が自分の気持ちを察してくれている。ディーノはもう、胸が熱くて泣きそうだ。なんて優しい子だろう。あまりに嬉しくて、そしてどこか寂しい。
「恭弥。………大人になったなあ」
「なにそれ。僕はいつでも好きな年齢だよ」
「へ? ああうん、そうだな?」
 つん、と唇を尖らした顔がいつもどおりで、なぜかほっとする。かわいい。ああかわいい。拗ねた顔までかわいいなんて子どもは卑怯だ。
「別に僕の目の前で群れるって訳じゃないし。どうせあなた、放っといたって群れるに決まってるんだし。だから…まあ、いいよ。うん。群れても」
「うん」
「ちゃんと大事にするんだよ」
「うん」
 あたりまえだ。ファミリーは大事なものである。だが、それを雲雀がいってくれたのが嬉しい。
「怪我しないように。それとか………とにかく、僕がいないところで何かあったら承知しないよ。あなたは僕が咬み殺すんだから」
「うん?」
 何でそんな話になった。だが雲雀の顔は真剣で、ディーノに口を挟む隙を与えない。
「あの草食動物の父親だって死んだって。そりゃあなたの方が強いに決まってるけど………でも」
 決まってない。いやその前に。
「え、ちょ………誰の誰が死んだって………?」
「だから草食動物の」
「ツナな。おまえのボスな」
「じゃないよ」
「………まあそれはいまはいいけどな。それの」
「父親。えーと…なんか赤ん坊がいってた。ミッツ………」
「マングローブは存命だかんな。家光?」
「それ」
 も生きてる。
 ほんの数時間前に、電話で帰国中に参加する予定のレセプションについて打ち合わせたばかりだ。所詮同盟ファミリーに過ぎないのだからそうそう気安く内情を打ち明ける筈もないのだが、そうはいってもそれなりの長い付き合いである。いくら若造といえども、これでも自分はマフィアのボスとして十年近く頑張ってきたというのに、ファミリーの大黒柱としての責任なるものを長々しく御講釈賜れ、それと自分の若かりしころの話だとか、おまけに最後に、次に会うときはおまえのかわいい子の話でも聞かせろよ、と。これは明らかにレセプションの後に酒杯を酌み交わすことを誘っているのだ。明らかに、命を狙われているだとか、危険な状況にいる人間の様子ではないだろう。大体死なれては困る。最近我が部下たちは、いくらディーノが息子がどんなに優しくて思いやり深く破天荒でかわいらしく天使のようで自由で妖精のようでと話して聞かせても、判で押したように「あーそりゃーよかったなーボス」と答えるばかりで、さっぱり身を入れて聞いてくれないのである。時間に余裕があるならば一晩中だって話して聞かせたいくらいなのだ。我が弟弟子の父はボンゴレの幹部でもあるので、いくら周知のことといえども、我が息子の美徳を教えてやって損はない筈である。
「えー? ………いやその、なんか恭弥の勘違いじゃねぇ?」
「あなたにはまだ伝わってないの? 朝に、赤ん坊がいってたよ、危篤だって」
「へ? マジで?」
 生きてる。その頃は明らかにぴんぴんしてる。だが元家庭教師が絡んでいるとなると、何か思惑があってのことであろうか。デマを流して、浮足立った敵対ファミリーを叩こうとかそういう。
「草食動物が遅刻してきて、で、父親が危篤だったからだ、って」
「あー………うんそっか。…恭弥はいい子だなあ」
「それは当然だよ」
 ふん、と鼻を高くする風紀委員長はこれはもうさっぱりとわかっていない。だがディーノにはわかった。明らかにこれはもう、破れかぶれの遅刻のいいわけである。マフィア関係の情報戦が目的であるなら、風紀委員にまで触れまわる必要性は全くないし、万一そこまで大がかりな計画だったとしたなら、日本にいる自分にひとことの説明もないのもおかしい。
 ディーノの通っていた学校は全寮制であったし、ファミリーは家族と疎遠な人間も多いが、それでもまったく聞かないわけではないいいわけである。自分はそれを利用できる環境にいたことはないが………だがまあ普通は遠縁の遠縁の伯父さんあたりをターゲットにする筈で、どうやら弟弟子は相当切羽詰まっていたらしい。
「赤ん坊がいってた。マフィアの仕事は危険がいっぱいなんだって」
「恭弥」
「別に。あなたなら五百人だって千人だって一度に殺せると思うけど、でも」
「いやそんなことしませんよー?」
 どんな期待だ。というかオレはどこの大量殺人犯だ。だがきゅう、と手を握られて何もいえなくなった。どうしていつもトンファーを握っている癖して、こんなにも柔らかくてかわいい紅葉のような手をしているのだろうか。
「気をつけなよ」
「………………ああ」
「ディーノ。ほんとうだよ」
「あたりまえだろ。オレは絶対、おまえのいるところに帰ってくる」
「うん」
 こくり、と真面目に頷いた息子に苦笑する。たった二箇月程の血の繋がりもない親子関係でも、雲雀はかけがえのないものだと思ってくれているのだろうか。ああ、そうだ。そんなこともわからないほどディーノは鈍くはない。
「別に! 親子なんだしそんなのあたりまえだからね!」
「おー。いったろあたりまえだって。おまえのとこ帰ってくるのも、一緒にいるのも、大好きなのも、あたりまえ、な?」
「………そう、なんだ」
「おう。…うん、そう」
 薄く赤らんだ息子の頬。瞳も潤んでいるようにも見えて、これはいけない。いつだって黒々と、ディーノをそのまま吸い込みそうなほどの深さを湛えている瞳が、今は銀河じゅうの星をぶち込んだみたいにきらきらしている。
「あなた、顔真っ赤」
「へ? え?! や、そうか?」
「うん」
 楽しげに息子は笑って、だがからかったわけでもなんでもないのだろう。いわれてみれば、頬が熱をはらんでいるのが自分でもわかる。恥ずかしい。いい大人がこれは恥ずかしい。だから親の情で、息子の頬も熟れた桃のように赤く染まっていることなぞ、指摘しないでおいてやる。
「いいの、でもあなた、こんなとこでだらだらしてて」
「え? いやおまえ」
 がいうか、と続けそうになった言葉を何とか飲み込んだ。部屋に入るなり雲雀がくっついてくるので、どうにもいえなかったが、ディーノとしたらさっさと帰って二人で夕飯をつくって、そのあとは二人で映画でも見たい。明日から一週間も会えないのだ。何か楽しい思い出が必要である。だが雲雀がつづけた言葉は、予想外のものだった。というかすっかり忘れていたというか。
「喪服とか持ってるの? あなたのクローゼット、ごしゃごしゃした服ばかり並んでるけど」
「ごしゃごしゃ………っていや! 一応オレの仕事着は黒のスーツだし持ってるし! って………喪服?」
「うん、あなた出るんだろ。草食動物と仲いいみたいだし」
「え? ………あ、家光?」
「うん」
 何当然なこといってるの、って顔だ。そりゃそうだ。日本には確か、通夜とかいう儀式が葬式の前にあるわけで、だとしたらディーノはそろそろ、その会場に向かっていなければいけない時刻だ。
 もし実際そうだったとしたら、オレもそうだけどおまえも出なくちゃいけないんだぞとか思ったが、何とか口には出さなかった。これ以上話を大きくするわけにはいかない。もしなんだか説得されて、じゃあいくよ、なんて素直に応じられたらどうする。礼儀を重んじる子なので、ないともいえない。
 何とかごまかさなくては。とはいえ、行ったふりをする、というのは論外だ。明日はイタリアに帰らなくてはいけないというのに、どうして無駄に時間を使えよう? 
「えーと。ほら日本語でなんていうんだっけ、家族だけでやる葬式みたいなー」
「密葬?」
「うんそれ。それだ。知り合いなんてマフィア関連の奴らばかしだかんな。身内だけでって」
 これでどうだ、一分の隙もない言い訳である。思わず心もち胸を反らすと、雲雀は首を傾げた。
「じゃあまずかったかな………風紀から一応花輪と香典を送っておいたんだけど」
「は、花輪?」
「うん、連絡があったら教職員の方も対応を取っているとは思うけど、こちらも知ってしまったわけだし、放っておくわけにも、ね。でも逆に手間かけさせてしまうかな。草食動物には香典返しはいらない、っていっておいて」
「コウデンガエシ?」
「うんお礼として品物で返してくるの。でもいらないから」
「………ああ」
 なんとなくわかった。我が弟弟子はピンチに際している。それはもう。彼の母であり家光の妻である女性はたいそう穏やかで優しく心の広い………胡散臭い居候がどんどん増えていっても全く気にしないほど心の広い人だが、そうはいってもいきなり自分の夫が死んだとかいって香典が送り届けられて、それでも笑顔でいられる筈がない。多分リボーンもその場にいて、きっとほぼ確実に雲雀がこの嘘を真に受けるようになんだかんだいったに違いないのだが、長年の経験から鑑みるに、このような事態におけるフォローはまったくさっぱり期待できない。ここはやはり兄弟子として、悪気のない些細な嘘で深い意味などなくて誰だってつい咄嗟に思ってもみないことを口にしてしまうものでだとかなんとか、とりあえず顔をだして口添えをしてやる必要が。
「ねぇ」
「………………」
「ねぇ、ディーノ」
「………………………え?」
「さっきの。………約束だよ」
 我にかえると、とっくに帰り支度を済ませた息子がそういって、袖を引いた。幼い仕草に思わず微笑んで、だが、ああ気づかない筈はない。真剣な顔。
「ああ。約束」
「ん」
「帰るか。あ、飯食い終わったらさ、この前買ったDVD観ねぇ?」
「あれ? あなた怖がりの癖に」
「おまえなー、父親に。大丈夫だって、ゾンビくれぇじゃびびんねぇよ。マフィアのボスだぜ?」
「どうだか。あなた週末になるとすぐ変な映画見たがるよね」
「ん? いやほらだから翌日仕事ないし………怖くて眠れなくても平気だろ? 明日はどうせ飛行機で寝てるし!」
「また部下に笑われるよ」
 そういって雲雀が笑って、ディーノは唇を緩めた。それでいい。
 だがそういえばなんで部下はあんなに笑うのだろうか。翌日は仕事がなく、我が息子は休みの日だとて登校する程学校を偏愛してはいるものの、平日ほど早い時間に家を出るわけではない。ここぞとばかりに夜更かしをしてビデオを観たり、だらだら話をしたり。翌朝は大体昼近くならないとなかなか起きられはしない。「若ぇな、ボス」なんて、自分でも子どもっぽいことをしていると思っている上司にいわずにおく気遣いくらい求めたいところだ。
「いいの! 今日くらいおまえとゆっくりすごさなくてどうするよ」
「………うん」
 あ、とそういえば弟弟子がピンチだったことを思いだした。そうだった。だがこんな純真な子を。こんなかわいらしい子を心配させて、気を揉ませて。咄嗟の嘘とはいえ自業自得である。自分にできることなぞ何もない。
「あ、なんか甘いもの買って帰ろうぜ。ケーキとか!」
「おまんじゅう」
「え? 渋いなー。あでもそか、栗のとかうまそうだよなあ」
「うん、蒸し羊羹でもいいよ」
「おお。あれな、四角い」
「すごい端的な描写だね」
 ああなんて! 思わず頬ずりしそうになると、じゃじゃ馬な息子は髪を引っ張ってきた。どうしようもない子だ! こんな子から目を離すなんて、本当なら一瞬だっていけない。ディーノは約束を守るべく、胸に誓った。







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