失敗した、と思った。
 これはもう確実に遅刻である。いやそれは既に家を出たときから、いや朝起きて、枕元でぴいとも鳴っていない時計が示している時間を目にしたときから気づいていたことだったのだ。急いで階段を駆け降りると、台所にいた母は「あら、つっくんお寝坊さんね」などという。正直怒りがこみあげたが争う時間が惜しい。文句を言えば、あら何度も起こしたわよなどと返されるのはわかりきっている。人を起こす、という行為は階下から大きな声でそろそろ朝ですよなどという事実を伝達すべく大声を出す程度では全く不充分であり、ベッドから引きずりおろし洗面所まで誘導し、必要とあれば食卓に着かせて初めて完遂したことになるのだという綱吉の主張は、何度対話を繰り返しても合意に至ったことはない。
 そしてまあ、残念なことに自業自得であるという自覚もまたあるのだ。全く記憶はないものの、目覚ましを消したのも自分、起きなかったのも自分。それに母は朝はいつもたいそう忙しいのだ。赤ん坊一人幼児二人小学生と中学生を一人ずつに、家事の手伝いぐらいしたらどうかと正直思うけれども料理の手伝いだけは決してさせられない女殺し屋が不定期に滞在している。忙しくないはずがない。
 ので、朝食はいらない、という旨だけ伝え洗面所に駆け込んだ。顔を洗う暇などあるのか、と問われればもちろんない。あるわけがない。だがそうであってもクラスメイトにも憧れの女の子にも不潔だなどと評価を下されるわけにはいかない。だいたい癖っ毛の自分の寝癖は手間もかけずに人前にでられるほどおとなしいものではないのだ。
「いってきます!!」
 玄関先で渡された弁当の包みは二つ。ありがたい話である。ダメツナの自分に早弁などする度胸はないから、何とか一時間目の休み時間に屋上ででもかっこんでしまおう。
「十代目!おはようございます!!」
「………獄寺くん」
 正直ここで待ってるくらいなら先に行けよ、と思う。ありがたいと思う反面申し訳ない反面、まあ正直いかっとする。勝手な言いぐさなのは自分でもわかってるわけだが、なんというかこう、そこまでしてくれるのならいっそ起こしてくれよ的な。モーニングコール。だめだ口にした瞬間何か人生で一番大切な決定が自動的にされそうだ。
「野球バカは朝練みたいっす! 本当に守護者として仕方のない奴っすね!」
「獄寺くんそれはいいから………走ろうよ」
「はい!」
「なんだダメツナ。おまえが寝坊したくせに、えらそーだぞ」
「リボーン」
 気儘に学校に来たり来なかったりする家庭教師がひらりとすぐ脇のブロック塀に飛び乗った。今日は来るつもりなんだろうなあ、ととてもとてもお断りのことばなぞいえやしない自分に歯噛みする。
「マフィアのボスたるもの、一番鳥とともにひとりでに起きるくれーじゃなきゃダメだぞ。現に九代目は黙ってても四時になると目が覚めちまってあちこち朝の散歩を」
「そ、それは………」
 歳だからじゃないのかとは思ったがなんとか突っ込むのを我慢した。優しそうな人であるのを知ってはいるがなんといってもマフィアのボスだ。
「目覚ましなんぞに頼るからダメなんだ。うるせーから消してやったぞ」
「リボーンさん………」
「………おまえかよ」
 ほんの数分前、寝ぼけて消してしまったのだろうと反省した自分を蹴飛ばしてやりたい。だが何故か蹴飛ばされたのは今の自分だった。
「ほらさっさと走れ。今の儘じゃ間にあわねーぞ」
「わかってるよ!!」
 いいかえして走り出す。もちろん死ぬ気で、そのつもりで。だが明らかに歩調を合わせてくれている自称右腕はまだずいぶんと余裕があって、だが情けないことに自分は既に息が切れている。正直死ぬ気なりなんなりが自由に使えるようになった、といってもそれは切迫した戦いなどの場だけのことで、日常生活ではやっぱり自分はダメツナである。追いつめられているといえばこれほど追いつめられた気分にあるのは戦いにおいても少ない気すらするのに、どうしたことだろうか。だいたいリボーンも気が利かない。こういうときこそ、死ぬ気弾でも何でも。
「おせーぞ、どれ一発」
「遠慮します!!!」
 いわれて我に返った。遅刻するのと、パンツ一丁でぎりぎり走り込むのとどっちがましかって話だ。
「頑張ってください、十代目!!」
「う、うん。………頑張ってるん…だけどね」
 荒い息の合間から返答を捻り出す。きつい。
「もうすぐ、ほらもうすぐ校門ですよ! 急ぎましょう!!」
 いやそれぐらい、通学路なんだし俺だってわかるよと突っ込みたいところだ。だが実際見慣れた校門が視界に入ったとたん、安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。鐘はまだ鳴り始めたばかり、たっぷり一分はあれは続くのだ。間に合う、これはどう考えたって間に合う。門柱に沿って立っている風紀委員の人たちの視線だって今日は怖くない。如何にぎりぎりでも間に合えば何の文句も………ってうわ。
「ってぇー………」
「だ、大丈夫ですか十代目!!」
 転んだ。
「たたた………うん、ちょっと擦りむいたけ………ど」
 大丈夫、と続けながら体勢を起こそうとして、だがそこで重々しく響きわたっていたチャイムが最後の一音を盛大にリブラートをかけて奏でた。十代目ぇ、と悲痛な呼び声が既に学校の敷地内に到達していた自称右腕から発せられた。ああせめてもよかった。もう少し前の地点で転んでしまったら、彼はきっと自分につきあって遅刻しようとするに違いないからだ。
「二年の沢田綱吉、だな」
 そんな僅かばかりの綱吉の安堵の気分は、強面の風紀委員が自分の名を名簿を照合しようとしだした時点で飛んでいった。どうしよう怒られる。
「今月に入って七回目………で間違いないか」
「ひ」
「てめー十代目に何を偉そうに!」
「わーごめんなさいごめんなさい」
「知ってるだろうが月に七回以上の遅刻で、委員長から直接の指導を受けられることになる」
「ごめんなさいごめんなさいこれには理由が」
「通学にかかる時間と遅れた理由を述べるように」
「すみませんもうしませんこれには理由が………へ?」
「だから、その理由をいえといっている」
 さすが短気な人の部下はやはり短気である。だから理由が………そこで綱吉は目の前で今にも怒鳴りつけたいのを我慢している、といった風の男が何を聞こうとしているのかを唐突に理解した。理由。遅刻した理由である、もちろん。
 ない。
 そんなものはない。いや厳密にいえば存在する。寝坊をしたからだ。起きるべき時間に起きることができなかったからだ。だが今現在の状況に置いてそんな理由はないも同じである。とても口にできるものではない。
「えと………ですからその理由は………理由は」
「うむ」
「その………理由はですね」
「早くしろ」
「てめぇ十代目になんて口を!!」
 ああどうすればいいんだろう。どうして俺は毎朝毎朝寝坊してしまうのだろう。遅刻までいかなくとも、だいたい毎日希望する時間には起きられなくて、あわただしい思いをすることになる。
「おうダメツナ。さっさと答えるんだぞ。だいたいマフィアのボスたるもの時間厳守は基本だ。家光だって、早朝抗争を仕掛けるときのために目覚ましを十個もって」
 明らかに笑いを含んだ声で、冷酷なる家庭教師がのたまう。父さんだって朝に弱いってことかよ、と突っ込みたいところだが、今はそんな場合ではない。というか毎日毎日おまえにしごかれているから疲れきって朝起きられないんじゃないだろうか。
「えーと、その………父が…えと、父がですね」
「だからどうした」
「父が………その、危篤で」
 口に出した途端に後悔している。流石にこれはない。騙されるはずがない。なんで父親が死にそうだっていうのに学校に来ているのかって話だ。
「本当ですか十代目!! 是非俺もご焼香を!」
 さっさと校舎に入れと他の風紀委員数人に促されながらも、自称右腕が涙ぐみながら叫び声をあげた。俺の方はいいから早くいけ、と声をかける。てか俺まだ死んだとはいっていない。ああでも父さんごめん、と綱吉は心の中で頭を下げた。死亡率がとんでもなく高そうな職種につくことを一言の話もなく厄介な家庭教師を押しつけることで強制しようとする父と、遅刻の言い訳に父親が重篤であるとする息子。どちらがひどいかという話だが………あ、考えだすと腹が立ってきた。あと二三回言い訳に使われたっていいくらいだ。死んだとはいってないんだし。
「貴様、そんな言い訳が通用すると思っているのか?」
 あ、使えない。
 冷静で全うな風紀委員が怒りの声を上げて、綱吉は我に返った。そりゃそうだ。だが、首根っこを捕まれて流石にあわてた。もっと戦いに慣れた人間相手に危機的な状況に陥ったことがある、というのはこの場合慰めにならない。誰相手であろうともこのように怒りを露わにされれば、おしなべて怖い。
「ごめんなさいごめんなさい本当なんです!」
 今さら撤回できない。綱吉は声を上げた。いやどうだろう、なんか話のきっかけをつかめば。そう思ったけどあとから生き返ったって聞きましたけど! みたいな。そういえば今頃どこにいるのだろう。まあどこにいようと無事に元気にやっていそうなイメージしかないけれども、そういえば父はマフィアの人間なのだった。
「嘘をつけ!!」
「何」
 よく通る低い声がして、空気が冷たく引き締まったのがわかった。風紀委員たちは皆居住まいを正し、そして自分の首根っこをつかんでいた男もその手を離した。そして、ニュートンが見つけたと聞くところの法則に従い、綱吉は地面に向けて落下した。
「って………いててて」
「は! この男が今月に入って七回目の遅刻でして」
「ふうん。それを指導するのは僕の仕事だよ」
「「す、すみません!!」」
 思わず声が重なったが、謝った理由は明らかに違う。きっちり九十度に腰を曲げている風紀委員は委員長の仕事を侵したのを謝っているのであり、綱吉が謝っているのは遅刻したことに関してだった。もしくは、その仕事を遂行しないことを懇願しているのだ。
「草食動物。うん、いいよ。咬み殺してあげる」
 機嫌良さげにそういうのは、戦えるとみて喜んでいるのだ。一瞬で現れた、トンファーで首元を押さえつけられる。怖い。ああ先ほどの自分の考えを訂正したい。誰相手でも怒りを露わにされればおしなべて怖い? それはそうかもしれないが、今こうして、生きのいい鼠を見つけた猫、みたいな顔をしているこの人の方が別格で怖い。
「いやけっこうですヒバリさん! すみませんこれには理由が!!」
「ふうん。なに」
「えっやっあっ!!」
「父親が危篤だそうです」
「ああっ!!」
 思わず悲鳴をあげる。なんということだ。冷酷な風紀委員は追いつめられきった鼠にかまわず職務を遂行した。ひどい。
「………危篤?」
 殴られる。衝撃を覚悟して頭を抱えて目を閉じて、だがそれはなかなかやってこなかった。どういうことだろう。おそるおそる目を開ける、とそいつは頭ではなく胸にきた。どこか頼りなげな、言葉を失って目を丸くしている委員長がいる。
「え、いやそのですね。それは」
「家光も危険な仕事をしているからな」
「赤ん坊」
 ひょい、とそれまでおとなしく肩に乗っていた家庭教師が地面に着地した。いままでにやにやと傍観していた男が口を挟む。このことに何か期待とか、ピンチを脱出したかのように思えるほど綱吉は甘くはない。さらにひどい事態になるだろうことは体を張った経験から予測できる。
「ちょっとおまえ黙ってろよ」
「………ミツ?」
「こいつの親父だぞ。会ってなかったか? ボンゴレの門外顧問をやってる」
「ふうん?」
 明らかに興味ありません、って顔で雲雀はうなずいた。まあ、むしろそれ以外の反応の方がびっくりするに決まってる。
「マフィアの男ってなるとな、危険がいっぱいだぞ。そりゃこいつが朝遅刻した日に限って死んでも不思議はねぇ」
「リボーン!!」
 思わず怒鳴る。どう聞いても庇ってやろうなどとは欠片たりとも思っていないのがわかる言い訳である。それに口元がむずむずしてる。
「うるせぇぞ」
 なんとかその今にも余計なことをいいだしそうな口を押さえようと綱吉は踊りかかったのだが、ぽん、と側頭部を蹴りとばされて終わった。ああ、と絶望的に綱吉は考える。ああ痛い。しかもそれに加えてこれから、どう転んだって風紀委員長に咬み殺されるのだ。それは間違いない。
「赤ん坊」
「なんだ?」
「マフィアってそんなに………危険なの?」
「「へ?」」
 ぽかんと思わず口を開ける。また何を今さらいいだした。
「まあそりゃな。どうした。びびってんのか?」
「そんなわけないだろ。でも………いやいい。君」
「は!!」
 いきなり振られた風紀委員は音を立てそうな感じで姿勢を正した。百メートルくらい離れて見てたら、ちょっと笑えたかもしれない。
「彼は不問で。今日中に報告書は作って」
「え! や! えええええ!? ヒバリさん?」
「次はないよ」
 そういい残して、颯爽と風紀委員長は立ち去っていった。目を見合わせたのは自分と家庭教師だけではない。風紀委員たちもだ。どうして自分は咬み殺されもせずに無事でいるんだろう。
 まさか先ほどの嘘を鵜呑みにした、とか。いやそれはないだろう、それはない。それに、例え何があったって遅刻は遅刻であると制裁を加えそうな委員長である。何といっても本人からして骨が折れても学校にだけは行きそうな人である。
 それとも結婚して丸くなったりしたのだろうか。いや、それもないだろう。つい先日だって学校中の生徒が悲嘆する、恐怖の所持品検査が行われたばかりである。あれは本当に情け容赦のないものだった。そうそう人の性格など変わろう筈もない。
 そういえば彼の夫であり父でもある兄弟子もまた、マフィアの人間なのだった。優しげな風貌や態度に、深く考えずにいたけれどもやっぱり危険な仕事を………そこまで考えて綱吉は苦笑した。神社の石段を頭から落下したって、大した怪我もせずにぴんぴんしていた人である。あれ程の丈夫な、そのうえ悪運の強い人は心配するだけ無駄である。だれだってそんなこと、わかっている筈だ。
 ああだが殴られずに済んだ。このあと風紀委員会の名義で家に花輪と香典が届けられ、こっぴどく、それはもうこっぴどく母に叱られることになることなぞ知る由もない綱吉は、一つ安堵のため息をついた。









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