コーヒーと賞味期限の話



 手合わせの合間の短い休憩時間、緑茶を飲み下して振り向くと自称家庭教師がなにやら固まっている。
 この能天気に騒がしいイタリア男を、戦いに引きずり込むのも容易なことではない。暇をもてあましているというわけでもなかろうにしょっちゅう応接室で寛いでいるくせ、屋上に誘ってものらりくらりとかわそうとする。いざ手合わせを始めても、一時間も立てば喉が渇いたの疲れたのと、わざとらしく僕に休憩を取らせようと騒ぎ出す。それならそうと面と向かって言えばいいのだ。微塵もいうことを聞く気はないがそれはそれである。とりあえず渡された紙パックの茶を息もつかずに飲みきって、すぐに再開させてやろう。だが、何とかこのミッションをやりきって視線をやると、肝心の相手はストローもささずにコーヒーを握り締めていた。
「……何やってるの。早く飲みなよ」
「うお! ……あ、恭弥か」
「他に誰がいるの。さっさと飲んだら?」
「え。あー、うん。オレまだ喉渇いてないしさ」
 目をそらしたままごそごそと紙パックをしまいこもうとする。さんざっぱら喉が渇いたと騒いだのはどこのどいつだ。わかってはいても建前だったと明かされると腹立たしいものである。羽交い絞めにしてズボンのポケットを探る。大体こんなものをつっこんだままにして僕と戦おうなんていい度胸だ。
「うわ!!恭弥、大胆〜!」
「馬鹿じゃないの。かっこつけないで最初からオレンジジュースでも頼めばよかったんだよ」
付き従っている部下は、ボスであるという彼の好みくらい把握しているのだろうと思っていたが違ったらしい。味覚まで子供っぽいのだろうと思ってそういってやると、大げさに眉をしかめた。
「いやそうじゃねぇよ。……ほら」
「……」
 無骨な指が、紙パックに印字された日付をなぞる。見覚えのある数字の並び。ああなるほど……とは思わない。だからなんだ。
「アタリが出た!って思うじゃねぇか」
「もう一本買ってやるつもりはないよ」
 買ってやるとしたらその数字の日に生まれてきた僕だろうか。冗談じゃない。
「もっと率直に心情を吐露すると、やっぱこれは運命だったんだとか思うじゃねぇか」
「ああまあ……それはそうかもね」
 手元にある自分のパックを見れば日付が一日違う。まあそういう意味では。
「え!! きょうや」
「この工場から毎日どれくらい出荷されてるのかは知らないけど、ここに届けられるのは何万分の一かだよね。購買部の横の販売機はいつも昼過ぎには売り切れちゃうのに今日は買えたんだし……そのコーヒーはあなたに飲まれる運命だったんだよ」
「そうじゃなくって!」
「さっさと飲んで、やろうよ。水分を取ってないから負けたとか、我慢ならない」
「え……でもさ」
「何」
「……記念にとっとこーかなー……なんて」
「馬鹿」
 背中に懐いてる人にトンファーをぐりぐり当ててやったのだが、こたえている様子はない。
 好きだ、といわれた。この騒がしいイタリア人にだ。半月ほど前のことだ。どう受け取っていいものか、しばらく迷ってみたりもしたけれども、まあ嘘ではないのだろう。男同士のことで、わざわざ口にすることで得があるとはとても思えない。そこを押していってきたのだし、人の感情に疎い自分にも、友情だとか家庭教師としての話でないことぐらいは察しがついた。自分がこれから先人を好きになることなどあるとは思えない、そういってやると、それでもいいといった。いいたかっただけだし、ずっと待つつもりだと。わざわざ説得する義理もないから了承して、それからも彼の態度は変わらない。暇ぶって応接室に現れてはだらだらして、時々手合わせをする。ふと視線が合うと、妙に熱い目で僕を見ている。そしてうろたえたような顔をする。
「ディーノ」
「え!……あ、なんだ?」
 ああ、名前を呼んでもそうだ。簡単だ。
「腐るよ」
「腐んねぇよ!冷蔵庫にしまっとくし!賞味期限になったら飲めばいいだろ」
「そんなの仕舞い込んでたら、絶対忘れるよ、あなた」
「忘れねぇよ!オレが恭弥のこと忘れるはずねぇだろ?」
「コーヒーの話でしょ?」
「コーヒーの話だぜ?」
 睫毛が触れ合いそうな距離で、琥珀の瞳が僕に答える。本当に簡単だ、と僕はまた思った。誰の話だ。
ああでも戦って、躰を動かして喉が渇いて、冷たい飲み物がすぐそこにあるのに飲まないなんて馬鹿げてる。欲しい時がおいしいときだ。何だって。
「飲みなよ」
「げ!! うっわ……ひっでぇ! きょう」
「ほら」
 問答無用でストローを差し込んで、口元に持ってってやるといやいやと首を振られた。未練がましい。仕方がないのでごくりと自分で嚥下する。とんでもなく甘い。コーヒーというよりコーヒー牛乳だ、こんなの。
「飲んで」
 もう一度口に含むと、まだ半分以上残っていたパックを放り投げる。つまり最後のチャンスだ、これは。左右に揺れていた視線がようやく僕を捕らえる。ほら、やっぱり喉が渇いてたんじゃないか。
「……んっ。は。……は、おっまえなあ、畜生」
「汚い言葉使うな、バカ馬」
 意地汚く零れたコーヒーまで舐め取っていた人を笑ってやると、唇の表面を咬まれた。ああまだ口の中が甘い。
「おまえ、オレがどんだけ我慢してたかわかってねーだろ」
「知らないよそんなの。……ねえ」
「何」
「たべて」
「……コーヒーの話だよな」
「僕の話だよ」
 放っといたら腐るよ、といったら腐んねぇよ、と返された。そのくせ顔を近づければ迷ったように視線を揺らした末噛み付くようにキスしてくる。簡単、本当に簡単だ。僕の話だ。だってまだ口の中が甘くて喉が渇いて仕方がない。それなのに僕の知る限り誰よりも甘い人にこんな風にむしゃぶりついている。
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