授業終わりのチャイムの音が、まるで晩鐘の、祈りをもて耳を傾けるべき妙なる調べのようにきこえた。
「よーし、これで終わり! ちゃんと予習しとくんだぞ!」
 勿体ぶっていい終えると、すぐさまテキストをまとめる。それを受けてざわざわと生徒たちは立ちあがった。やっと終わった。多分そう思っている筈で、遺憾ながら自分も意を同じくするものだ。
 英語教師という役柄が、たいそうな重責という訳ではない。もちろん英語は母国語ではない。だがだからこそ、呼吸をするようにこの耳触りがいいとはとてもいえない言語を駆使している人種よりは、ずっとわかりやすく理論だってその学習法を説明できるだろうと思う。シャチよりペレグリー二の方が水泳を教えるのがうまい、みたいな感じだ。この例えでよければ。まあ彼女だって人生の大半を水の中で過ごしているんだろうから、ビート版でばちゃばちゃやっているお子様たちに浮き方を教えろといわれたって、え、だって浮こうと思えば浮いてるもんじゃないのって感じなのかもしれないけれど。
「ディーノ先生、ちょっといいですか?」
「あ、ああ。もちろんだぜ」
 我ながらドナドナドナと売られていく子牛のいななきのような響きをもった返答になった。もちろん、勉学熱心な生徒たちの質問に答えるのは、教師として至極当然の責務である。不満のあろうはずがない。だが彼女たちときたら、いつだって数分間の質疑応答を終えたら、どこに住んでるんですかとか恋人はいるんですかとか、とんでもなくさりげなく、しかしごく自然に、こちらのプライヴェートに関する問題に踏み込んでくる。マフィアのボスに明かせる私生活なぞ殆どなく、正直対応に困ってもいるのだ。
 同じ年代か、それとも年上のレディーたち相手なら、対応はそれなりに心得ている。仕事上参加せざるを得ない宴席上では、女性たちにリップサービスを潤沢に贈るのは最早職務の一つであるのだ。だがローティーンの、傷つきやすい癖に怖れを知らない思春期の娘さんたちが相手となると、ちょっとばかり様相も変わってくる。あなたみたいな美しい人とずっとお話しするなんて僕の心臓が止まってしまいますとかなんとか、適当なことをいえば面白い人ねと顔を赤くして退席を許可してくれる情深いレディーたちとは違う。相手は中学生女子なのだ。下手すると不審者としてお縄、青少年何とか条例がどうとか、なんてことにもなりかねない。中学生男子だとて、一度思い入れたっぷりに囁いてみたところ、この人頭おかしくなったのかな、咬み殺せば治るかしら、みたいな視線を投げかけてくださったのだ。あれは傷ついた。
「オレのことはいいだろー。貴重な放課後はだな、部活とか趣味とかに」
 予想通りかしましいお嬢さん方の質問は我が個人情報を公にせんとする意図を持ち始めたので、やんわりと釘を刺してみた。まあ正直にいえば、オレみたいな中途半端な時期に赴任してきた、前歴も明かさない教師なぞ不信の目を持て見られて当然である。あれこれ聞かれたって仕方がないと思うべきだ。だが人類に与えられた一日は二十四時間しかなく、オレはこれからマフィアのボスとしての仕事と、弟子と手合わせをするという約束をこなさなければならないのである。しかもその弟子が、何度説明しても時間延長を申し立てるとあっては、なかなかにハードなスケジュールであるといわざるを得ない。
「センセイやっさしい。でもあたし今日は部活ないんだー」
「てか趣味とか。センセイの趣味は何ですかー?」
「しゅ、趣味?」
 仕事ですと答えそうになって、いやそれはないなと思いなおした。
 正直我ながら滅私の精神にてマフィアのボスという職務を全うしようとしているけれども、それをひけらかすのは我が美意識に適うものではない。というか、彼女たちからしたらオレの仕事は単なる英語教師で、そこまで没頭しておきながらあの授業内容かと、内心驚かれるなんてことがないともいいきれないのだ。
「え、えーと………音楽鑑賞、とかかな?」
 そんなで捻りだした答えがこれだ。自室で鎮座ましましている御大層なオーディオセットに鼻で笑われても文句はいえない。とはいえいくら音楽を愛してはいても、自室が自室と呼ばれてはいるが主に寝室としての役割しかこなしていない状況では、どうしたって立派な機材も宝の持ち腐れになるものだ。
「わ。センセイどういうの聴くの?」
 その返しは予想していなかった。中学教師が好きな音楽として公にするに足る、穏健でなおかつ生徒たちに迎合しているジャンルとはどのようなものだろう? デスメタルでもへヴィメタでもないことは確かだが、考えてみればオレは日本の若者の間で流行っている曲を殆ど知らない。ほぼ唯一の情報源が、熱心に校歌を愛唱しているとなれば、無理もなかろうというものである。
「え? えーそうだな………あ、ツナじゃねぇか、どうした?」
 うろうろと視線を彷徨わせていると、かわいい弟分のふわふわした頭髪が人ごみの向こうで動いているのが見え、オレは思わず声をかけた。そういえば先ほどまでの授業は、この弟分のいるクラスであったのだ。お嬢さん方はさっと振り向いて、そして弟分はひぃ、と身体をこわばらせる。思わず笑いそうになったのを、何とかこらえた。
 我が弟分は、どうやら女の子たちとコミュニケーションをとることが苦手らしい。正直その気持ちはわからないでもない。イタリア男が何をと笑われそうだが、オレも、この弟分の年頃はそんな感じだった。ドゥザボーイズ・ホールイタリア版みたいな劣悪な寄宿舎には、どこを向いても男しかいなかったし、家に帰ればいるのは更に屈強なマフィアの男たちばかりで、女の子と接することなんて数えるほどだったのだ。いや、この学校は共学だし、多分弟弟子には女の子と親しくなる機会もそれなりにあるのだろうけれども、日本人て奴は総じてシャイである。オレの弟子なぞ慎ましいにも程があるといいたいレベルで、会ったばかりの頃は、ちょっと頬にキスされたくらいのことで真っ赤になって憤慨したりもしたのだ。
「いえ! 何でもないです!」
「ほんとか? わかんねーとこあったんじゃねぇの?」
 授業の折々で挙手を求める度、ものすごい勢いで視線をそらされたのだ。どうやら英語が苦手らしいことは承知している。あの家庭教師を差し置いてオレが教えてやるべきか否か。
「大丈夫ですよ」
「そうか? まあ、今のごたごたが片づいたあとならさ、オレでよかったら」
 教えてやろうか、といおうとしてだが何とか口に出す前に間に合った。今のオレは先生で、弟分に特別にレクチャーしてやろうなんて、依怙贔屓だと見なされてしまうかもしれない。お嬢さん方はまだ半数ほどが残っていて、全く時は金なり、早く部活に励むなり勉学に励むなりするべきである。昼間もツナたちと連絡を取りやすくなると思って教師として入り込んだのに、正直人の目や耳が多すぎて、戦い云々以前に、ちょっとつっこんだ会話すら出来やしない。
「ありがとうございます! でも俺よりディーノさ…先生は大丈夫ですか? 大変じゃありません?」
 いい子である。オレは感激のあまり大きく頷きそうになって、だが何とかこらえた。この場で、教師という職種がとんでもないハードワークでどうこうなんて愚痴をこぼして、許される筈はない。
 やっぱりここは礼の代わりといっちゃなんだが、簡単なテスト対策くらいはオレがつきあってやるべきだろうか? しかしオレにはまだマフィアのボスとしての仕事があって、それに先程も言った通り、かわいい弟子と手合わせしたり食事をしたりという予定がある。ああまったく、一日が七十二時間あれば、うまくこなせる筈なのに。
「オレは大丈夫だって! むしろいつもと違う暮らしで楽しいくらいだぜ」
 心配性な弟弟子ににっこり微笑んでみせる。いったことは嘘じゃない。慣れない仕事は想像していたよりもずっとオレを疲弊させたが、本音をいえばそれ以上に楽しいのだ。五時までのオレは、昔へなちょこな子どもだった頃のオレが憧れてた真っ当な仕事に着いたオレ。意外と大変で、忙しない生活だけれども、仕事を終えて校門をくぐる度に何ともいえない達成感を感じる。
「本当ですか?」
「何だよ、オレを疑うのかぁ? ちゃんとセンセーやれてるだろ?」
「や、すみません! そういうことじゃなくて!!」
 慌てたように首を振るので思わずふきだすと、むっと眉をしかめられた。ミスった。
「でもディーノさ…先生、朝とか大丈夫なんですか。早いんでしょう?」
「もう沢田ぁ、さっきから何失礼なこといってんの?」
「そうだよ、いいすぎなんじゃない?」
 おまえらの方がむしろ、とはいえない。正義感に溢れる女生徒たちがフォローしようと慈悲深くも声をあげてくれて、オレはそれをフォローすべくまぁまぁと手を振ってみせた。実は弟弟子の心配はもっともなもので、オレは朝が苦手である。マフィアのボスとしての仕事は職住接近もいいところで、起きて五分もあれば執務室に入ることができる。それに、夜が遅いことが多い分、特に朝方からの予定でも入っていない限り朝は中々布団から出られないのが現状である。だが、そんなことをいえば、何で彼がそんなことを知っているのかという話になるだろう。
 彼がオレの弱点を何故把握しているのかといえば、それはオレが彼の家に泊ったことがあるからだ。数ヶ月前の話で、あの時は単に幼い弟分と苛烈極まりない元家庭教師がうまくやれているかという心配が殆どで、ボンゴレの行く末なんていう問題まで関わるつもりは毛頭なかった。単に勧められるがまま、あのまるでおとぎ話にでも出てきそうな、白雪姫も御常連になっていそうな、かわいらしくもこじんまりとした家に宿泊させていただいたのだ。そして、このとてもチェデフのボスが住んでいるなんて、いや一晩だって泊ったことがあるなんてどこのマフィアだって聞いても信じないだろう小さな家の寝具は、あたりまえだがとんでもなく、いくらジャポーネがハイテクノロジーに通じておりダウンサイジングに関する技術に長けているとしても、ありえないほど小さかった。寝心地がいいとはお世辞にもいえず、オレは白雪姫というよりはえんどう豆の上に寝たなんとかさんみたいな気分で明け方近くまで寝つけずにいて、そしてはっと気づいた時には昼近い時刻になっていたと、そういうわけだ。
 あの恐るべき布団には、中学生の弟弟子に合わせて日が変わる前には潜り込んだので、マフィアのボスなんてものは随分暢気にぐーぐー眠るもんだと思われていても不思議はない。七人の小人………じゃない赤ん坊の一人にはさんざん嫌味をいわれたし、多分ママンはオレの分の朝食も用意してくれていただろう。気にしないでいいのよお昼にしましょうと、笑っていってくれたけれど、今思い返しても申し訳ない気分になる。
 とはいえ。
「ちゃんと起きてるって。すっげー早くから登校してるんだぞ」
 これは事実である。教師には雑用も多いし、授業前になすべき下準備もあるのだ。オレだけでなく他の教師の皆さんも、朝早くから各々の職務に勤しんでいらっしゃる。だが、これは学生だった頃はさっぱり頭に思い浮かばなかった実情である。
「本当ですかぁ?」
 だから弟弟子がからかいめいた口調で突っ込みを入れたのは当然のことで、だけれどもオレはちょっとむっとした。誰だって、無実の罪を疑われれば腹に据えかねるものだ。
「本当だって、ここんとこオレはずっとヒバリとともに目覚めてるんだぜ?」
 とはいえ表に出すのも大人げない。オレはにっこりと笑って、冗談めかしてこの真摯なる職務への献身を明らかにした。ああ、勿論比喩表現である。いうまでもなく。部下が間違えて手配したいつもよりもグレードの高いホテルの窓は嵌め殺しで、鳥の囀りなぞ聞こえてくる筈がない。
「え、ああ。そうなんですか?」
「うん?」
 隠したつもりだったのだけれど、不満が表に出ていたのだろうか。弟弟子は顔を真っ赤にさせてぱくぱくと口を動かした。ついでに悲鳴と「やっぱり?!」「そうじゃないかと思ってたんだー!!」などという女生徒たちの雄叫びが聞こえた。うん?
 何か変なことをいっただろうか? ブラウニングの詩を例にとるまでもなく、目覚めの時はヒバリの鳴き声で始まるものだ。朝は七時、揚げ雲雀名乗りいで蝸牛枝に這い。
「君たち何を廊下で騒いでいるのかな」
 神、空にしろしめす、全て世はこともなし………とはなかなかいかないようだ。弟子の怒りに満ちた声が聞こえて、オレは慌てて振り返った。
「なんだよ、授業はもう終わってるんだから問題ないだろきょう………………雲雀、くんって、あれ?」
 そういえば人前で名前で呼ぶなってこの前怒られたばかりだっけと、寸前で思いだしたオレは彼の名字を口にして、そして固まった。同じ響きの単語を、オレはちょっと前に口にしたばかりではなかったか。ヒバリ。スズメ目ヒバリ科ヒバリ属。農地の減少から数が減っているなんて話もよく聞くけれども、そうはいっても気づけばよく騒がしく囀っている鳥だ。だけれどもあのかわいらしい鳴き声を、この国に来てからこちら聞いていない気がする。聞こえるのは雀とかカラスとか、それかハトとか。
「え、その………きょう…、雲雀くん。オレ」
「なにあなたどうしたの。変なものでも食べた?」
「いやその」
 オレは恐ろしい事実に思い当たったのだ。比喩表現はその国の文化や環境によって大きく変わってくる。この前だって、なにやらあの子はオレの手を長いこと触ったりつねったり擦ったりしてきて何のいたずらをしているつもりかと思っていたら、「白魚のような指だね」とそういったのだ。なんでも鞭を扱う長い指だとかそういう意味らしいのだが、イタリア人のオレには思いもつかない表現で、興味深く思ったものだ。だからつまり、この国では「ヒバリ」という鳥に早起きで朝一番から活動を始めるってイメージがなかったとしたら? それどころか、オレはいつもファーストネームで呼ぶから頭になかったけれども、あの鳥は日本では一般的ではなく、この学校では「ヒバリ」といえばそれすなわち、今目の前で不審そうに眉をしかめている、かわいい弟子のことだとしたらどうだろう。
「その! あれだ、おまえら誤解だ!!」
 やばい。
 まず思ったのがそれだ。オレはなんていった? ヒバリとともに目覚めるとか、そんなことをいわなかったか? 日本というのは未成年者の保護に慎重な国で、迂闊な対応をとればすぐに捕まって、社会的な名誉も何もかもすべて失うのだ………と聞いた。情けないことにオレはそれまでも結構な頻度で来日していたにも関わらず、自分に関わりのありそうな………つまり暴力団排除なんとかとかそこらへんの法律しかチェックしていなかった。そんなオレが教師になるにあたって、生真面目な風紀委員長が女生徒との接触は控えるべしとのアドヴァイスをしてくれたのだ。何でも人命救助だとか回避しがたい状況に陥った場合をのぞいて、成人男性が女性徒の肩以外の場所にさわる行為はセクハラに分類されるのだそうである。浮ついた台詞も言うのは禁止だといわれた。率直にいうと簡単なことじゃない。彼女たちは何かといえば大挙して押し寄せてくるし、何かの拍子に腕や背中などに触ってしまいそうになったことは数え切れない。だが何とか、マフィアのボスがそんな罪で捕まるわけにはいかないと自分を奮起させて乗り切ってきた。
 正直赴任するまでは、この国の法令を遵守することがこんなにも困難な事柄だなんて想像もしなかった。ただ英語を教えるだけなのだし、思い返しても学生時代に教師と自分から必要以上にお近づきになりたいなんて、考えたこともなかったのだ。そういえばあの先生も偉そうに腰かけるのはいつもオレの肩だったから、なにやら自重して………いるわけないな、うん。とにかく「向こうの方が先生になんて近寄ってこないだろ」とオレは笑って、恭弥は絶対そんなことないよあなたはわかってないと一生懸命説明してくれていたのに、全く真剣に取り上げなかった。
「うわー………オレ」
「だから何。さっさといいなよ。ガラスでも割った?」
「いやちょっといてぇって」
 思わず顔を両手で覆うと、引きはがそうとばかりに恭弥が腕をひっぱってきた。指の隙間からおそるおそる視線をやれば、ぷうと頬を膨らませている我が弟子は今日もとんでもなくかわいらしい。そうだ、あの日も恭弥はちょっと拗ねてみせて、それでオレはついじゃあ恭弥にももう触っちゃだめなのかってからかって、そしたら僕は風紀なんだから問題ないよって初めてこの子からキスを
「すまんっ! 恭弥」
「なに」
「おまえらもごめんな! その、ちょっと紛らわしいいいかたしちまったっていうか、口が滑ったっていうか。誤解すんなよ!!」
 確かに恭弥は自分は風紀だから大丈夫だと主張していたけれど、さすがに法律に違反するとなってはそうそうその言い分が通るとは限らないだろう。それに、たぶんこういった問題は刑事処罰を受けたかどうかだけが重要ではない。いずれ国にかえるオレと違って、恭弥はこの学校でずっと勉学に励まなくてはいけないのだ。被害者の方が余程明け透けな好奇の目に晒されるなんて事態は、悲しいかな珍しいことじゃない。恭弥と出会った時点で、このまだまだ幼くでも誰よりも澄んだ瞳をした戦闘狂に惚れていると自覚した時点で、オレは世間のどんな批判も非難も甘んじて受け入れる覚悟はできているけれども、彼は違う。子どもだし、それ以前にあまりにストイックに自分の強さや風紀を突き詰めようとしていて、他人の評価なぞ考えたこともない筈だ。
「だからなに」
「あ、うんその、な。いい方間違えたっていうかな。オレがこのところずっと早起きしてるんだぞーって話で」
「嘘ばっかり。あなたすごい寝ぼすけなのに」
「ん。まぁ否定しないけどな。でも学校があるからちゃんと起きてるんだぞ」
「本当かな」
「ほんとだって。でな、その」
 なんとか察して話をあわせてほしい………そしてできるならば怒らないで欲しいところである。実際嘘ではない。そして、疾しいところはない。生真面目な弟子は平日にオレが宿泊しているホテルに泊まることを頑なに固辞するのだ。オレの失言は全くの事実無根である。
「なに」
 で、あるからして、弟子に対してお騒がせしてすみませんという申し訳ない気持ちに駆られたりもするわけだ。
「その、こう、そういう流れで、つい、オレはヒバリと共に起きてるんだぞ!と」
「僕起こしてな」
「いのはわかってるけどな、イタリアじゃ早起きの鳥っていったらヒバリで………比喩表現っつうか慣用句…まではいかねぇかもしれないけど」
 ぱちり、と恭弥にウインクしてみせた途端、ぎゃああああとそれまでは比較的おとなしくしていた女子生徒たちが悲鳴をあげて、オレは思わず身体を強張らせた。いわれないでも馬鹿みたいな仕草だってことは自覚しているがまさか発煙筒をあげるわけにも………っていやそれより怪我でもしたのだろうか。だが見渡すとそのような逼迫した事態が起こっている様子はなく、それまでとの変化といえばただ恭弥が物凄く眉間に皺を寄せていたってだけだった。うんごめんな群れてるよな?
「そんな感じで早朝から活動してるってアピールしてたっていうかさ、恭弥はきっともっと早起きなんだろうけど」
 平日の起床時間なぞ知りませんよと加えてアピールしてみる。合図も送ったし何とか察して話をあわせてくれないかと祈るばかりだ。
「あっ!! わかりました! 日本だと鶏の鳴き声で起きるとか! 犬の鳴き声で起きるとかそんな感じなんですねっ!!!」
「へ? ああ、うんそうなんだそれなんだよ!!」
 振り向いてこくこくこくと頷く。一瞬戸惑わなかったといえば嘘になるけれども、弟弟子はとんでもない大声で、そう廊下中に響き渡るような大声で日伊文化相違への考察を披露してくれた。こんな子どもに気遣わせるなんてオレは駄目な兄弟子で、だが非常に頼もしくも思う。ありがたい。どれだけ感謝の言葉を贈ったって足りない程だ。
「なるほど!! そうですよね、オレもうちょっとで勘違いするとこでしたよぉ!! ヒバリさんがディーノさんと一緒に起きるとか」
「いやあごめんな!! そんなことあるわけねぇな! 変な勘違いしないでくれよな!」
「………草食動物」
「え? あ、はい!! なんでしょうか!!!」
 ぴしり、と弟弟子が姿勢を正すのに合わせて、オレは恐る恐る背後を振りむいた。
「その、恭弥?」
 そこにいるのはもちろん、やんちゃ盛りのかわいい弟子だ。だが彼はしばらく見ない間に表情を失っていて、まるでいつだか見た、日本の伝統だとかいう仮面劇の登場人物みたいにみえた。その顔のままで彼はオレの腕を思いきり引き寄せて、オレは思わず身体を強張らせた。きゃあきゃあと少女たちがまた悲鳴をあげる。もちろん、オレがこれだけ恐怖を感じているのだから、彼女たちが怯えるのも無理はない。やっぱりこれは後で思いきり咬み殺してあげるから逃がさないよとかそういう意味だろうか。ああまだ仕事が終わってないというのに!
「君何いってるの。僕がそんな風紀の乱れることするわけないだろ」
「で、ですよねー!!」
 その調子だ恭弥。オレはぎゅうとしがみつかれたままで、思わず小刻みに頷いてみせた。この場が切り抜けられるなら今日はちょっと長めに戦ってやったっていい。
「始業時間に遅れたらどうするの。君は委員じゃないかもしれないけど学生の本分として一時間は前に登校して勉学の準備を」
 え?
「はや! いやその」
 同じ驚きを感じたらしい弟分はふるふると首を振る。非常に正しい状況把握である。
「学生として当然のことだろ」
「ですよね! そうですよね、ヒバリさんが遅刻するとかありえないし」
「そうだよ。だから、平日は彼とホテルに泊まったりとかしない」
 ちょ。
きゃああああああああああと悲鳴があがって我にかえる。悲鳴をあげたいのはオレだ。いや恭弥は間違ったことはいっていない。真実しかいっていない。翌日が休みの日は大体泊っていってくれる。だがちょっと空気を読んで欲しかったというか何処をどう考えてもピンチだというか。やはり首だろうか? しかも逮捕? 保釈金で出てこれなかったなんて理由でバトルに参加できなかったらあの家庭教師はとんでもなく怒ることだろう。恭弥はもうこうなったらどんな手を使っても責任とって引き取って周囲の偏見に晒される前にイタリアの学校に転校させるからいいにしても、オレはしばらくはこの中学校から離れるわけにはいかない。
「あのな恭弥」
「戦おうよ」
「いやなそうじゃなく」
「戦うよ。あなたはちゃんと躾なおさなきゃいけないって前から思っていたんだ」
 ふう、と大きく息をついて、何とか感情を落ち着かせる。前を見据えればきらきら期待で目を輝かせた弟子がいて、ああこれは思う壺なのだろうか。だがそれでも、オレには役目というものがある。
「それはオレの台詞だ。覚悟しろよ」


「きょうーや。起きろー。そろそろ朝だぞー」
 指通りのいい髪を梳きながらオレは呟いた。そう呟いたというのが正しい。怒鳴っても叫んでも吠えてもおらず、起こす気はあるのかと糾弾されれば、どう言い逃れもできないだろう。ああ学校行きたくない。学生だった昔ならともかく、今自分が心からそう感じていることに正直驚きを感じている。だが本音だ。
 朝七時。そろそろ起きねばならない時刻だ。しかし揚げ雲雀は深い眠りの世界にいて、遺憾ながらその責任の所在は我にありと告白せねばならないものだ。高く舞い上がり美しい歌を歌ってみせるのは繁殖期のオスのヒバリ特有の行動で、だけれどもほんの四時間ほど前まで、オレは自分の感情の赴くままに好きなだけ彼を歌わせていた。空に舞いあげさせた回数なぞ数えてもいない。大人げないというほかない。
「てか風紀はどうしたんだよ。平日は泊んないとかいってなかったか?」
 かわいい頬を撫でながら責任転嫁をするのは不可能である。泊って行くように仕向けたのはオレだし、未成年を外泊させて言い逃れできるはずもない。
「むー…………ん」
「ん? どした起きたか」
「何………時」
「七時」
「ちょ」
 がばりと起き上った子どもはもう眠気を追い払った顔をしている。流石風紀委員長だ。
「何で起こしてくれないの。遅れる」
「まだ大丈夫だって、朝食用意させたし食ってけよ」
「そんなの」
「車で送るしさ。充分間に合う。裏門の近くの路地でおろすから」
 通学や下校時間でも人通りのない、恭弥から教わった場所だ。今日のオレの授業は二時間目からだし、始業時間までに着けば充分間に合う。いやそうであっても昨日から今日にかけてのオレの行動は褒められるものではなかっただろうが、そこはもうなんというか今さらというか。部下たちは性犯罪で逮捕されたマフィアのボスに変わらぬ忠誠を誓ってくれるものだろうか。
「ちょっと」
「ん?」
「何それ。送るならちゃんと校門まで送って行きなよ」
「いやおまえ」
 散々昨日説明してやったのに、まだわかっていないのだろうか。そうしたいのは山々だが、いくらなんでもこれ以上罪状を重ねるわけにはいかない。
「いいから。僕を遅刻させたら一生許さないよ」
「あのな、いい子だからいうこと」
「そんなことになったら二度と戦ってあげない」
「………………………わかった」
 重々しく頷く。いやおまえ取引材料がそれかよと思わないでもない。思わないでもないがオレは恭弥の家庭教師として、手あわせも重要な仕事であるし、大体あんな沈痛な面持ちで脅されて、要求を呑まないでいられるほど非情な男ではないつもりである。
 そんなわけで、フェラーリを並盛中学校まで運転するオレの心はドナドナドナと売られていく子牛のそれだった。だが車を止めると、そこには登校する生徒たちと腰を百度に固定する委員たちしかおらず、オレを待ち構えている筈の強面の刑事とかこの前便宜を図ってやった大使館の誰それだとかは影も形もなかった。その上校長室に呼びだされたオレは、授業をしていない教師全員の万歳三唱を受け、これからも並盛中学校をよろしくお願いしますと深々と頭を下げられたのだ。
 風紀すごい。いや、彼の能力と手腕が、中学生とは思えない程周囲に認められていることをオレは常々喜ばしく思っていたものだけれども、まさか本当に風紀だから大丈夫なんて思いもよらない。こちらとしたらもう彼の周囲の人間すべてに土下座して回っても許されないくらいに考えていたのだ。だが実際は、オレを糾弾し馘首する筈の同僚や上司たちは、暖かい態度で接してくれている。生徒たちの好奇心を含んだ視線を全く感じないとはいわないが、それは以前からもそうだし、何よりいつもいつも授業に関係ない質問をしてきていたお嬢さん方が急に自分の学生としての本分に気づいたらしいのだ。おかげで休み時間は授業の準備にまるまる使うことができる。ありがたいことだ。
 朝は七時。雲雀、並盛に知ろしめす。全て世はこともなし………とはいわないけれど、並盛は今日も平和です。









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