出会って三十分で


「好きだ。愛している」
 親愛なるボスの低められた囁きを耳にして、俺はもう少しで口に含んだ缶コーヒーを吹き出しそうになった。もちろん考えるまでもなく、囁かれたのは俺じゃない。相手は今日付けでボスの弟子になったボンゴレファミリーの次期守護者である子どもで、もちろん考えるまでもなくそれだって普通じゃない。どっからどうみてもその子どもの染色体はXY。思春期に特有のどこか頼りなげな肢体と、滑らかな肌。線の細い顔立ちの中でぎらぎらと殺気走っている黒い瞳。しかし身に纏っているのは明らかに男性用の制服だし、何より弟子として受け入れる前にそれなりの下調べは済ましている。間違いはない。ボスだってそこはわかっているはずだ。
「一目見てわかった。オレにはおまえが必要だ」
「ふうん?」
「おまえがオレを必要としているのと同じくらいに」
「なにそれ。いらないよ」
「いる。すぐにわかるさ」
 自信ありげにボスは頷いた。確かに間違っていないだろう。長年ボスの家庭教師だったアルコパレーノはなんというか基本的に言葉が足りないというか、必要以上に説明しない方で、ボスは彼との修行の中で、いつも自分なりの答えを出そうと戦い方を模索してきた。あの方の桁外れの強さにはなかなか適うものではないが、それでもこと教えることに関していえば全く劣るものではない筈だ。キャバッローネのボスをついでからもずっとかのアルコパレーノの教えを受けていたが、いつもその学んだものを我がファミリーの面々にわかりやすく伝える方法を考えていた。そういう人なのだ。
「好きだ。オレが、おまえを好きなんだ。オレはキャバッローネのボスで、普通に考えれば跡取りを残すのが使命かもしれねぇ。でもキャバッローネは血筋の存続を絶対とは考えてねぇし、遠縁の親戚に任せてもいい、恭弥」
 まるで自分にいいきかせるようにボスが囁いた。そう、確かにそういったのは俺だ。何も必ずしもあんたが後継ぎを残していかなければならないわけじゃないんだと、説明した。
 なぜならボスはどことなく女性に対して臆病というか、ひいている部分があったからだ。恵まれた容姿、地位や財力、もてなかった訳ではもちろんない。堅気の女性に深入りしても互いに傷つくだけだと、もう諦めているようなのだ。それとなく唆しても、ただ笑って、どこぞの店できれいに遊んで見せて、それだけ。継続的な関係を築こうとしない。
 だいたいボスは仕事人間で、それはもう、どの教会の修道士だって、あそこまで身を捧げることはできまいというありさまなのだ。しかも捧げてるものは神ではなくファミリーで、神からも見放されているような連中ばかりだ。どれだけ尽くしても救われることはない。
 いや、違うのかもしれない。彼は金儲けと血腥い行いにその時間を潰す。朗らかな顔でファミリーの人間とスポーツでもしようと率先して動いているときも、本音ではただそういった時間で部下たちの団結やチームワークを高めるのを意図しているのは知っている。そんなことをしなくても皆ボスに忠誠を誓っているのだと教えてやるべきだろうか? だが彼はあの年ですでに、そのような綺麗ごとが簡単に崩れることを知っているのだ! 彼は見ていて忍びないほどにファミリーに自分を捧げて、だがきっと、それが彼の選んだ贖いの道なのだ。諌めることなど出来やしない。
「あなた、頭がおかしいの?」
 愛の言葉を囁かれた少年の反応はまっとうなものだった。いやどうだろうか? 相当攻撃的な性格なのは出会って半時間ほどですでにわかっているが、このボスの発言には今のところ殴ったりも蹴ったりもトンファーも振り上げたりもしていない。ただ興味深いものを見つけた、とでもいいたげな表情で小首を傾げ、恋に落ちた男をまじまじと見つめている。そりゃ確かに今までこの少年にこんなことをいってくる男はいなかったかもしれない。多少目つきが鋭いことを除けば整った造作をしていて、同じ年頃の少女たちにはさぞや人気があるのではないだろうかと邪推するのだが、同性は別だ。だがその反応は、男をいい気にさせるだけなのだと、ああこんな立場でなければ説教してやりたい。いわんこっちゃないボスは息を詰めて真っ赤になって、喰らい尽くしそうな目でこんな子どものことをみている。
 キャバッローネはそのボスの責任を親から子へと引き継いできたわけではない。たった百年で既に十人もその地位にある人間が変わったことからも明白である。その歴史を俺はボスに話した。本来なら既に知っていてしかるべき話だが、子どもの頃のボスはそれはもう抗争云々だけでなく、ファミリーの歴史のような話まで、マフィアに関わることはすべて嫌悪感を示していた。そして、その誤解を解いて誇るべき歴史を伝えてやるべきその当時のボスは、病に倒れながら仕事をこなしていたこともあって、子どもとの時間をほとんど取ることができなかった。そしてその子どもがボスをついでからは、もうただただ忙しない日々だ。ファミリーを立て直すための日々の雑事で精一杯だった。
「そうかもな。自分がこんな風になるなんて考えもしなかった。オレはおまえが好きだ。好きなんだ」
「………どこが?」
「おまえが」
「そうじゃなくて」
「すべてが」
 掠れた声は必死さを物語っているかのようだった。この話をしたのはつい昨日の晩のことだ。この緊迫した状況下で何を、と思われるかもしれないが、ボスはマフィアの戦いに子どもたちを巻き込むことにひどく苛立っていた。たぶん、さらに幼いころに過酷な状況に追い込まれた自分に重ねているのだろう。少しは他のこと、彼自身のことも考えてほしくて、冗談を交えて、彼から何代か前のキャバッローネのボスの話をした。記録では、継いでも早々にやめて外国に渡った者だの、堅気の嫁さんをもらって昼間は嫁さんの実家の仕事をしてたって者もいる。ちなみに花屋だ。何の冗談だよって感じだろう? 遠戚の奴らでもなんでも、後を継ぎたいって奴らはいくらでもいる。ボスはピザが好きだからピザ屋の嫁さんなんていいんじゃないかとか、そんなことをいった。もう少し気楽に構えていいんだって、そういってやりたかっただけなのに、どうにも俺は言葉が足りない。ボスは困った顔で礼をいって、それでこの話は終わってしまったのだと、そう思っていたのだ。
「オレはおまえを護る」
「なにそれ」
 くすぐったそうに子どもは笑った。くるくると回されている武具さえなければ、かわいらしいといってもいいような表情を浮かべている。だがボスがひかれたのはそこだけではないことは、わかっていた。
「いらないよそんなの」
「そういうな、オレがおまえを強くする。オレがそばにいる限り、おまえのその澄んだ目が曇ることは、一瞬たりともない、恭弥」
 おもしろいね、と子どもは答えて、そしてそのあとのボスの決定的な言葉。まったくまだ戦闘的にも恋愛的にも何もしちゃいないっていうのに、ボスはもうすっかり責任を取るつもりらしい。だがいまさらだ、そういう人なのだ。とりあえずオレはコーヒーを飲み干すと、本国の部下に根回しの指示をすべく携帯を開いた。やることはいくらでもある。それにまあかなり情熱的な方向性に傾きつつある抱擁に、目のやり場に困った、というのもある。
 ふと視線をやれば、ボスの恋人の部下であるという男が、呆けた顔をして固まっていた。まあ気持ちは想像できなくもない。かなりの強面の、俺と同じくらいの年齢だろう奇抜な髪形をした男である。資料によると雲雀恭弥は幼いながらに驚異的な戦闘力を持っているようだし、こんな男を子どもの部下につけているくらいだ。雲雀恭弥の家もいわゆる日本でいうところの極道の、それもかなり裕福な家庭とみて間違いはないのではないだろうか。そうだとしたら、親しくなっておいて損はない。オレが覚えたばかりの、猪口を傾けるジェスチャーをしてみせると、男は一も二もなくうなずいた。酒が飲みたい気分だったのかもしれない。
 酒に誘った男が、風紀副委員長でありまだ中学生なのだと知ったのは、それから数時間後、芋焼酎をロックで十杯近く胃の腑に収めた後のことだった。まったく日本人の年齢はわかりにくい。
















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